第50話 夕暮れの告白
重い足取りで、麦風の玄関のドアを開ける。
カランというドアベルの音が、やけに空虚に響いた。
体も心も、鉛みたいに重い。冷たいリンクの空気に晒されていたせいか、体の芯まで冷え切ってしまっていた。
「おかえり、あかり」
カウンターでチェックイン業務をしていた葵さんが、顔を上げて迎えてくれた。
その、いつもと変わらない穏やかな声を聞いた瞬間、心の中で必死に張り詰めていた糸が、ぷつんと音を立てて切れた。
「……葵さん……」
声が震える。
「どうした? 随分ひでえ顔してんぞ」
葵さんは、ゆっくりと私の元へ歩み寄り、心配そうに顔を覗き込んだ。
その優しい眼差しを見た瞬間、堪えきれなかった涙が、ぽろぽろと溢れ出した。
「う……うわあああああん……!」
宿泊客の驚く様子にも構わず、私は子供みたいに声を上げて泣きながら、目の前の温かい体にぎゅっとしがみついた。
葵さんは何も言わず、ただ黙って私の頭を、優しく何度もさすってくれた。
その大きくて、少しだけごつごつした手のひらが、とても、とても温かかった。
「どうしたらいいか、わからなくて……! みのりちゃんが、みのりちゃんが……!」
しゃくり上げながら、私は今日あったことを途切れ途切れに話した。
みのりちゃんの辛そうな顔。
氷室さんの厳しい言葉。
そして、みのりちゃんから投げかけられた「あなた」という冷たい響き。
葵さんは黙って、最後まで聞いてくれた。
私が少し落ち着きを取り戻した頃、肩をぽんと叩き、いつもの姉御肌の顔でにっ、と笑う。
「――よし。行くぞ、あかり」
「え……?」
「決まってんだろ。みのりのとこだ」
「え、でも、お仕事は……」
有無を言わせない口調で腕をぐいと引かれ、私は強引に玄関の方へ連れ出された。
そして、ピックアップトラックの助手席に、半ば放り込まれる。
「シートベルト、締めろよ」
それだけ言うと葵さんはエンジンをかけ、勢いよく発進した。
車は夕暮れの道を、みのりちゃんの下宿先である川西町の農家へ向かって走り出す。
窓の外を、茜色に染まった十勝の広大な風景が流れていく。
葵さんの、荒っぽいけど優しい運転。
その隣で揺られているうちに、ぐちゃぐちゃだった頭の中が、少しずつ整理されていく気がした。
静さんの言葉が蘇る。
『真実は、時に人を傷つける。でも、偽りはもっと深く、そして長く、人を蝕んでいく』
そうだ。
私は恐れていた。
みのりちゃんを傷つけることを。
そして、私自身が傷つくことを。
でも、そのせいで、私たちはこんなにも遠くなってしまった。
もう逃げるのは、やめよう。
正直に話そう。
たとえ、それで嫌われたとしても。
そう決心したものの、膝の上でぎゅっと握りしめた手は、意思とは裏腹に小刻みに震えていた。
その震える手に、横から温かいものがそっと重ねられる。
葵さんの大きな手だった。
「……きっと、大丈夫だ」
前を向いたまま、力強く、でも優しく言う。
そのたった一言が魔法のように、心の震えをぴたりと止めてくれた。
私はこくりと頷き、重ねられた手をぎゅっと握り返した。
みのりちゃんは、家には帰っていなかった。
下宿先の聡子さんに「この辺で、一人になりたい時、みのりが行きそうな場所、ありますか?」と尋ねると、少し考えた後、「ああ、あそこかもしれないわね」と一つの場所を教えてくれた。
***
車を降り、牧草地のあぜ道を歩いていく。
日高の山々が夕陽に燃える丘の上。
牧草ロールが点々と転がる、その影に——みのりちゃんはいた。
体操座りで膝を抱え、一人、うずくまっている。
その小さな背中は、今にも消えてしまいそうなくらい儚かった。
私は葵さんとアイコンタクトを交わし、一人で彼女の元へ歩み寄る。
そして静かに、その隣へ腰を下ろした。
「……ごめんね、みのりちゃん。私、隠してたことがあるの」
震える声で切り出す。
みのりちゃんは顔を上げない。
私は続けた。
文化祭でのこと。
篠宮先輩と連絡先を交換してしまったこと。
そして、デートに誘われていること。
正直に、全部話した。
話し終えても、みのりちゃんは何も言わなかった。
ただ、その肩が小さく震え始める。
やがて、ぽつりぽつりと涙の染みが地面に落ちていった。
「……知ってた」
顔を上げないまま、か細い声が落ちる。
「見てたから。カーテンの隙間から。……でも聞けなかった。怖くて」
そして、嗚咽が漏れ始めた。
「あかりは何も悪くないのに……! なのに、なんで私じゃないの!? なんであかりなの!?って嫉妬して、嫌な態度とっちゃう自分が……本当に嫌い……っ!」
わんわんと泣きじゃくる。
「あかりが帯広に来なければよかったのにって……そんなひどいことまで考えちゃって……最低でしょ?」
みのりちゃんは、しゃくり上げながら続けた。
「……だから、私のことは気にしないで、先輩とデートしてきて」
「……ホントにいいの?」
みのりちゃんは黙ったまま、コクリと頷いた。
私は静かにポケットからスマートフォンを取り出し、みのりちゃんの目の前で篠宮先輩の連絡先を呼び出した。
コール音が数回鳴った後。
『もしもし? 雪村さん?』
スピーカーから、少し弾んだ声。
「……こんばんは、先輩。お誘いの件なんですけど」
一度大きく息を吸い、はっきりと告げた。
「ごめんなさい。私、先輩とは行けません」
『え……?』
「……きっと、先輩のこと、もっとちゃんと見てる女の子が、すぐ近くにいます。だから、その子のこと、ちゃんと見てあげてください」
それだけ言って、私は通話を切った。
「……あかり?」
あっけに取られているみのりちゃんに向き直る。
「私はね、先輩よりも、みのりちゃんのことが好きなの」
「え……」
「スケートのことになると誰よりも真剣なみのりちゃんが好き。太陽みたいな笑顔のみのりちゃんが好き。底ぬけに明るいみのりちゃんが好き。ジェラートを食べてるみのりちゃんが好き。私の変な占いでも本気で信じてくれるみのりちゃんが好き。白樺先生の質問に焦ってる顔のみのりちゃんが好き」
「あかり……」
そして私は、みのりちゃんをありったけの力で抱きしめた。
「みのりちゃんの、不器用なところも、弱いところも、ぜんぶ、ぜーんぶ、大好き!」
腕の中で、みのりちゃんの体がびくっと震える。
そして次の瞬間、私の背中に強く腕が回された。
「……私も……っ!」
肩のあたりで、くぐもった声が響く。
「私も、あかりのことが、大好き……っ!」
夕焼け空の下、私たちは子供みたいに泣きながら笑いながら、壊れかけた友情を、前よりもずっと強く結び直していた。
遠くで、私たちを見守ってくれていた葵さんの、優しい笑顔と煙草の灯が見えた気がした。
十勝の短い秋が、もうすぐ終わろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます