第49話 氷上の涙と砕けた心
11月、上旬。
十勝の空は、鉛色に重く垂れ込めていた。
吐く息は白く凍り、頬を刺す風は、もう完全に冬の匂いがした。
明治十勝オーバルの巨大なアリーナに足を踏み入れると、ひんやりとした氷の匂いが、私を迎えた。
――記録会、当日。
私はスタンドの隅の席に、そっと腰を下ろした。
リンクサイドでは、みのりちゃんが入念にストレッチをしている。
でも、その姿は、どこか遠い。
会場に来てから、私たちはまだ、ほとんど言葉を交わせていなかった。
「……頑張ってね」
勇気を振り絞ってかけた声に、みのりちゃんは一瞬だけこちらを振り返った。
「……うん」
短くそう答えると、すぐにリンクの方へ向き直ってしまう。
その小さな背中が、まるで私を拒絶しているようで、胸がずきりと痛んだ。
やがて公式練習が始まる。
みのりちゃんは、いつものように力強く氷を蹴った。
――けれど、その滑りは明らかに精彩を欠いていた。
体が硬い。動きがぎこちない。
何より、みのりちゃんらしくなかったのは、その目だった。
いつもなら鋭く前だけを見据えているはずの瞳が、今はどこか虚ろで、焦点が合っていない。
まるで氷の上で、迷子になってしまった子どものようだった。
その姿を見ているのが、辛かった。
そして、運命の女子1000メートルの公式記録会が始まった。
みのりちゃんがスタートラインに立つ。
パン! と、乾いた号砲。
スタートダッシュは悪くなかった。
でも、最初のコーナーを曲がる時だった。
みのりちゃんの、体が内側に傾きすぎた。
「あっ……!」
スタンドから、小さな悲鳴が上がる。
みのりちゃんは大きくバランスを崩し、転倒こそしなかったものの、大幅にスピードを失ってしまった。
――らしくないミス。
その後も滑りは立て直せず、焦れば焦るほど体は言うことを聞かなくなり、フォームはどんどん崩れていく。
ゴールした時のタイムは、自己ベストに遠く及ばない惨憺たるものだった。
電光掲示板に映るタイムと順位は、下から数えた方が早いくらいだった。
みのりちゃんは、それをただ呆然と見上げていた。
そして、次の滑走者――。
氷室澪さんが、まるで女王のように悠然とリンクに現れた。
彼女は、みのりちゃんのタイムなど全く意に介さないように、完璧な、音のない滑りで氷の上を舞った。
そして、みのりちゃんの記録を数秒も上回る圧倒的なタイムを叩き出したのだった。
***
すべてのレースが終わった。
私はどう声をかければいいのかも分からず、ただスタンドに座っていた。
リンクサイドでは、帯広一条高校のスケート部が輪になってミーティングをしている。
顧問の先生が厳しい顔で何かを話し、みのりちゃんはその輪の中で、ただ俯いていた。
その時だった。
「――ふざけないで!!」
氷のように冷たく、しかし怒りに満ちた叫び声が、その場の空気を切り裂いた。
声のした方に、誰もが息をのむ。
そこに立っていたのは、瑞樹学園のジャージを羽織った氷室澪さんだった。
彼女は一直線にミーティングの輪へ割って入り、うつむくみのりちゃんの胸ぐらを掴みかからんばかりの勢いで睨みつけた。
「畑中さんッ! なんなの、あの滑りは! 私を馬鹿にしてるの!?」
「……!」
みのりちゃんの肩が、びくりと震えた。
「あなた、それでも私のライバルのつもり!? 今日のあなたは、ただ氷の上にいただけ。そこに魂はなかった。そんな相手に勝っても、少しも嬉しくない!」
その言葉は、あまりにも残酷で――それでいて、あまりにも真っすぐだった。
「氷室! やめろ!」
「他校のミーティングに首を突っ込むな!」
瑞樹学園高校の関係者たちが、慌てて氷室さんを止めに入る。
「離して!」
両脇を大人たちに抱えられながらも、氷室さんはみのりちゃんに向かって叫んだ。
その瞳には、怒りと失望、そして――少しの悲しみが、確かに浮かんでいた。
「――次もあんな滑りをしたら、絶対に許さないから!」
その叫びは、氷室さんなりの、最大級の“エール”だったのかもしれない。
でも、今の傷ついたみのりちゃんには、それはあまりにも鋭すぎる刃だった。
氷室さんが連れて行かれた後も、リンクサイドには重い沈黙が流れていた。
ミーティングが解散になり、私はいてもたってもいられず、スタンドを駆け下りた。
みのりちゃんの元へ、向かわなきゃ。
声をかけなければ。
何か、言わなければ。
でも――どんな言葉が、今の彼女に届くというのだろう。
ロッカールームの扉を開けると、中に一人の人影があった。
みのりちゃんだった。
私に気づいていたはずなのに、一度もこちらを見ようとはしない。
ロッカーのベンチに座り、うつ向いているその小さな背中。
今にも崩れ落ちてしまいそうなくらい、弱々しかった。
「みのり、ちゃん……」
か細い声で呼んだ。
みのりちゃんは、ゆっくりと顔を上げた。
泣き腫らしたような、赤い目。
「……ごめん」
ぽつりと、呟く。
「あなたと、今は話したくない。……一人に、させて」
――あなた。
そのたった一言が、まるで鋭い氷の刃のように、私の心臓を深く突き刺した。
今まで、一度も、みのりちゃんからそんな風に呼ばれたことはなかった。
いつだって私たちは、“あかり”と“みのりちゃん”だった。
その一言が、今の私たちの遠い距離を、何よりも雄弁に語っていた。
私は、何も言えなかった。
みのりちゃんは私の横をすり抜け、出口の方へ足早に去っていく。
私は、その小さな背中を、ただ見送ることしかできなかった。
追いかけることも、呼び止めることもできずに。
冷たいロッカールームの壁にもたれかかりながら、私は自分の無力さに唇を噛みしめた。
晩秋の重い空が、私たち二人の上に、静かに、のしかかってくるようだった。
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