第6話

「――と、まぁ、こんなところかしらね」


 雪乃さんの話が終わり、ゆったりとしたジャズ音楽が頭の中に再び入ってくる。


 その話を聞いて、僕は半ば放心状態になっていた。

 語られた彼女の正体。それは想像を遥かに超えたものだった。

 なんだよ『物書きの青春』の権化って。そう思いながらもどこか納得感のある表現だった。


 コーヒーの香りが鼻をくすぐる。

 この喫茶店のコーヒーは逸品なのだ。

 ――――そうだ、喫茶かすみだ。そしてその店主の、雪乃さんだ。


「……あの」


 僕は思い切って一つのお願いをすることにした。


「また小説を書いたら、読んでもらえますか……?」

「えぇ、もちろん!」


 ありったけの勇気を出したその声は、か細いながらもちゃんと届いたようだ。


 どうやら僕は本当は小説を書きたいらしい。



 ◇



 家に帰ってきて引き出しの底からデジタルメモを掘り出す。

 二つ折りのそれをパカっと開き、ほこりまみれの画面を軽く拭き取る。


 そしてまず手始めに、と去年書いたものを見返すことにしてみた。


「なんだぁ、この駄文」


 それはひどい有様だった。

 当時は自信作と思っていた作品も、今冷静になって読めば誤字脱字に内容の矛盾だらけだ。


 ショックではあったが、それはある意味での自信にもつながった。

 今の僕なら去年以上の作品が書けるってことだから。

 今度こそ、彼女のお眼鏡(掛けてないけど)にかなう作品が書けるかもってことだから。


 僕は再び、鞄の中にデジタルメモを放り込んだ。



 ◇



 だけど、現実はそう甘くもなかった。

 今の僕は高校3年生・受験生である。その壁が重くのしかかることになるのはそう遠くなかった。


 同年代でつながっているSNSは受験の話題一色になり。迫りくる試験日のカウントダウンは気を焦らせる。小説なんて書いている余裕はなかったのだ。


 空き時間はスマホアプリで英単語の学習、時間のある時には問題演習。もっと時間のある時は塾で授業を受けたり自習をしたり。すっかりそんな生活になっていた。

 時間のない高校生には仕方のないことだ。


「こんにちは、雪乃さん」

「受験生だもんねぇ、頑張ってるね……」


 いつの間にか喫茶かすみで執筆をすることもなくなり、その時間を学問に充てるようになった。


 コーヒーは集中力を高め、効率よく勉強をするのにうってつけなのだ。

 問題集とノートを机に広げ、黙々と演習を続ける。


 カフェのBGMが聞こえなくなってきたら集中力が高まってきている証だ。


 一日の目標問題数に到達するまでのペースを計算し、アスリートの気分でストイックに問題と向き合う。

 少し早めに終わったら、もう少し多めに演習をすることにしている。受験までの時間はない、勉強ペースは速いことに越したことはないのだ。


 心の奥底に、夏の未練を残しながら。


 でもそんなことは関係ない。受験は今後の人生がかかっているのだから。

 そうやって気持ちにフタをしながら過ごすのもまた、日常になっていた。


 それでも、夏にかける思いが消えることはなかった。それをすぐに思い知ることになる。



 ◇



 カラカラと扉が開くが、僕はそっちを見る余裕なんてない。


「お久しぶり! 雪乃さん!」


 それはいつかと寸分足りとも変わらない声。

 初めて聞いたあの女の子の声。

 不覚にもかわいいと思った、あの声。


 無意識のうちに目線は彼女のほうを向いていた。


「ねぇ、今年もお題を持ってきたよ! 参加は自由だけどね~」


 少女は僕の姿を見つけては、昔と変わらない笑顔で話しかけてくる。

 その姿に再び心を射抜かれた。


 ――――やっぱり僕、本当は……彼女に近づきたい!


 だけど僕が惚れたのは彼女という存在ではない。

 去年に置いてきた、楽しい気持ち、悔しい気持ち。

 それを取り戻し、泣いた去年のリベンジをするためだった。


 いつでも取り組めるように、と入れておいたデジタルメモがここで功を奏した。


「ねぇ!」

「どうしたの?」

「今年も小説書くからさ、見てもらえないかな?」


 僕はさっそくデジタルメモを開き、執筆にとりかかる。


「もちろんだよ!」


 受験よりも大切なものが、ここにあるからだ。

 人生をかけて取り組んでもいいと思えるものが、ここにあったからだ。


「あらあら、執筆始めちゃってぇ……本当によかったわ」


 そう言う雪乃さんはどこか嬉しそうで。


 ぼくの書いてくれる物語を、待ってくれる人がいる。

 それは雪乃さんであり、どこかのだれかであり、紛れもない僕自身である。


 頭ではわかっている。でも、心はもう夏に戻ってしまっていたのだから。


 コーヒーを一杯飲み、集中力を高める。

 ジャズの音楽に合わせてリズミカルにキーボードの音を奏でる。

 画面上の文字は踊り、素敵な物語を紡ぐ。


 チョロい、なんて言われたらそれまでだが、僕の心なんて案外そんなもんだ。

 学問との両立? そんなものは気合でどうにかなるさ、きっと。



 取りに帰ろう。あの夏に置き忘れたものを、今。

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