第5話「無縁街へ」後編

 無縁街の入口には、今にも崩れ落ちそうな巨大ゲートが口を開けていた。かつて繁華街の象徴だったであろう赤いアーチは錆びに侵食され、ネオン管の半分は死んでいる。ぶら下がったままの文字は黒ずみ、まるで血の跡が何度も重ねられたかのようだった。


「神崎さん」  

 背後から天海の声がした。

「ここから先は私は入らないわ。車を見ておく。その代わり──」

 天海は七瀬の手に黒いホルスターを握らせた。中にあるのは、ずしりと重い9mmピストル──Glock19


「天海さん、これは……?」

「護身用よ」

 想像以上に重い。金属の冷たさが、掌から腕、そして心臓まで伝わってくる。警察学校の訓練で撃ったことはあるが、その銃とは精度が違う。

「危険な目に遭ったら、迷わず撃ちなさい」


「準備はできたか? さあ、行くぞ」

 桃馬の号令で無縁街に足を踏み入れた。

 七瀬は黒いホルスターを腰に巻いて、慌てて後を追う。ここから先は「法」ではなく「暴力」が支配する世界。

 振り向くと、腕組みをする天海の姿が見えた。相変わらず無表情な顔をしていたが「頑張れ」と言っている気がした。


 無縁街内部──。

 路上は生活の匂いがあった。廃材を集めた屋台で何かを焼く油の音。安酒の空瓶が転がるアルコールの匂い。簡易的なテントと地面に横たわるホームレス。

 汚れた目で自分たちをジロジロ見てくるが、危害を加えてくる様子はない。

 しかし、油断は禁物。ここは不法滞在者や犯罪者が集まるエリアであり、警察すら近寄らない完全なスラム地区、人外が集まる無法地帯なのだ。

 本来であれば、東京都としても管理しないといけないのだが、スラム街があることで、犯罪者たちが集まり、危険エリアが特定されることで、皮肉なことに治安良化に役立っている。


「ひよっこ、今からそんな緊張してると、身体が持たねえぞ」

 辺りを見渡し、緊張しながら歩く七瀬と違い、桃馬はまるで散歩を楽しむような歩調で歩いている。


「わ、分かってますよ……それと『ひよっこ』って何ですか? 一応、私、名前が……」

「雛鳥だから、ひよっこで何が悪いよ」

 桃馬は笑いながら、ポケットに手を突っ込んでズンズン歩く。まるで無縁街を勝って知ったる庭のように。その後ろを朱い布袋を肩から掛けたサクラがついて行く。

(この二人……どうしてこんなに平然としていられるの……?)


「あ、あの……」

 七瀬はサクラに話しかけた。サクラは冷たい目で七瀬を見る。

「サクラさんは怖くないの……?」

「はい、全然」

 無機質な声で返答する。


「ははっ、ビビってんのはお前だけだ。しかもここは無縁街の第一階層だしな」

 桃馬が笑う。

「え?」

「無縁街ってのなあ、大きくみっつの階層に区切られてる。主にホームレスが生息する第一階層、薬物中毒者や犯罪者たちが巣食う第二階層、それから人外の者が集う第三階層だ」

(じ、人外……?)

 聞き返す勇気もなく、七瀬は唾を飲み込み、辺りを見渡した。確かにホームレスは多いが、まだ生活の匂いはある。

「紅蓮会は第二階層にいる。目的地はまだ先だ」

 桃馬は相変わらず飄々とした口調で答える。


 歩みを続けると、空気が変わるのを感じられた。

 入口付近と違い、近代的な建物が増えてきた。廃虚となっているが再開発に失敗した名残だ。

 一歩進んだだけで、街の湿度が肌にまとわりつく。排気ガスではない。人の群れの熱でもない。どこかで長く放置された鉄と油と、わずかな血の匂いが混じったような、鈍い重さを帯びた空気だ。


 更に道を進むと、明らかに今まで来た道とは違う通りが見えた。そこに見えない境界があった。

 舗装は同じはずなのに、地面がわずかに暗く沈んで見える。まるで目に映らない線が、街を仕切っているかのようだ。その線の内側の空気は重い。深く濁って、空気が澱んで見える。地面に見えないラインが描かれているような気がする。


「さあ、来たぞ」

 桃馬が陽気な声を上げる。

「ここから先が『第二階層』だぜ」

 建物は第一層よりも古いが荒れていない。むしろ手が加えられすぎていた。壁には赤い紐や奇妙なマークがペンキで塗りつぶされ、縄張りを示している。法ではなく、もっと原始的で歪んだルールが息づいていた。


「さあ、お嬢ちゃん、どうぞ」

「え?」

 桃馬がおどけたように片手でエスコートした。

「ヤタガラスの一員になるんだろ? 先陣切って歩かないと、やっていけないぜ」


 七瀬は睨み返し、震える足を前へ出した。

(舐められてたまるもんですか……!)


 内心は怖くて仕方ないが、虚勢を張って背筋を伸ばして歩いた。路上には刺青の男、国籍不明の外国人、目の焦点が合っていない薬物中毒者。歩くだけで視線が突き刺さる。足元には注射器が転がり、踏むたびに、カチッと嫌な音がした。


「目指すアジトはもう少し先だぞ──」

 背後から能天気な声が聞こえてくる。少し振り向くと、桃馬がポケットに手を突っ込んで笑いながら歩いていて、そのすぐ後ろをサクラがついてくる。


 ガサガサッ!

「き、キャア!」

 不意に足元を犬ほどの大きさの何かが横切る。

「え? ね、ネコ……?」

「はっはっは、ネコじゃねえぞ、そいつはネズミだ」

「は、はあ!?」

 七瀬は驚き、逃げて行く動物を目で追った。こんな大きなネズミを見たことがなかった。小型犬くらいの大きさだった。

「ここは無法地帯で死体を棄てにくるやつもいる。その死体を食うからデカくなるんだよ」

 桃馬が楽しそうに説明し、その傍らではサクラが無表情な顔をしていた。


 七瀬の恐怖は加速したが、今更、引くわけにはいかず、歩みを進めた。

 その時だ、目の前でうずくまっている人を見つけた。近づいてみると、それはひとりの老婆だった。

(何でこんなところにお婆さんが?)

 不審に思ったが、放っておくわけにいかない。七瀬は思わず近寄った。


「……お婆ちゃん、大丈夫?」

 屈んで声を掛ける。

「く……苦しい……」

 小柄な老婆は苦しそうな顔をしている。

「隊長! お婆ちゃんを病院に……」

 七瀬が桃馬に顔を向けた時だった。不意に首に腕が巻き付いた。


「不用心だぜ……お嬢ちゃん」

 ドスの聞いた男の声が聞こえた。老婆は七瀬の首に腕を回して、尋常ではない力で締め上げた。

「え……? う……ううっ!」

 何が起こったか分からず、七瀬は老婆をふりほどこうとするが、老婆の力は強く、ギリギリと首を締め上げる。


「あ─あ、こんな簡単な手に引っ掛かるかよ? こんな無法地帯に、ババアがいるわけねえじゃねえか」

 桃馬が呆れたように呟く。


「ゲヘヘ、久しぶりの女だあ、良い匂いだあ」

 老婆は七瀬の髪の匂いを嗅ぎながら腕に力を込めた。また七瀬が捕まるのを見て、周囲からいつのまにか、男たちがゾンビのように近づいてきた。


(く……苦しい……)

 首を絞められる七瀬は意識が朦朧としてきた。銃を出そうとしたが、手に力が入らない。

 呼吸が浅くなり、頭の奥がしびれ、視界の端から色が抜けていく。


 桃馬は相変わらずポケットに手を突っ込んだまま、七瀬をじっと見ていた。その表情は、助けるでも突き放すでもない。試している男の顔──。


(だ、ダメ……息が……)

 七瀬の意識が途切れ、世界の音が遠のく。  

 その時だった──。


「ランボー、出番だ」

 

 桃馬が誰かの名を呼んだ瞬間、老婆の腕からすっと力が抜けた。

 だが、七瀬の意識も同時に途切れ、その場に崩れ落ちると、ゆっくりと闇に沈んでいった。




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