第2話「仮想の家族」



## 毎晩2時間の裏切り


 翌日、私は健司の書斎に閉じこもっていた。


 机の上には、健司のノートパソコンが開かれている。パスワードは知っていた。結婚記念日だ。皮肉なことに、健司はそれを変えなかった。


「ログイン履歴...」


 私は震える指で、メタバースアプリの管理画面を開いた。


 画面に表示されたのは、膨大な記録だった。


『2022年4月15日 21:34-23:47 ログイン時間:2時間13分』

『2022年4月16日 22:01-00:32 ログイン時間:2時間31分』

『2022年4月17日 21:15-23:58 ログイン時間:2時間43分』


 延々と続く記録。


 三年前から、ほぼ毎日。


 一日も欠かさず、健司はメタバースにログインしていた。


「毎晩...二時間以上...」


 私は唇を噛んだ。


 思い返せば、健司は毎晩遅くまでパソコンの前にいた。「仕事」だと言っていた。「オンライン会議」だと言っていた。


 私は疑わなかった。


 いや、疑う気力もなかった。


 そういえば、健司が「今日どうだった?」って聞いてきたとき、私はスマホを見ながら「別に」って答えてた。何度も。


 晩ご飯のとき、健司が「これ、美味しいね」って言ったとき、私は「冷凍だけど」って素っ気なく返した。


 会話が、いつの間にか義務になっていた。


 でも――


「それでも!」


 私は拳を握りしめた。


 それでも、メタバースで別の女と暮らしていい理由にはならない。


 私だって、完璧な妻じゃなかった。


 秘密のInstagramアカウントを持っている。フォロワーは5,000人。料理と日常の写真を載せて、「素敵ですね」「憧れます」ってコメントをもらう。


 そこでは、「幸せな主婦」を演じていた。


 現実の健司には見せない笑顔で。


 でも、それは違う。


 私は体を売ったわけじゃない。心を売ったわけでもない。


 健司は――


 私は目を閉じた。


 午後八時。ルナが指定した時間まで、あと三時間。


---


 時間になった。


 私は再びVRゴーグルを装着した。


 視界が白く染まり、次の瞬間、私はメタバース空間にいた。


 座標データに従って転送された場所は、昨日の葬儀場とはまったく違う風景だった。


 青い空。白い雲。緑の芝生。


 そして――


 目の前に、家があった。


 二階建ての、白い壁の家。小さな庭には花が咲いている。玄関にはウェルカムボードがかかっている。


『KENJI & LUNA'S HOME』


 健司とルナの家。


「嘘でしょ...」


 私は呆然と立ち尽くした。


 これが、健司が毎晩通っていた場所。


 玄関のドアが開いた。


 ルナが現れた。


 昨日と同じ、銀髪の美しいアバター。でも今日は白いドレスではなく、カジュアルなワンピースを着ている。まるで、普段着のように。


「来てくれたんですね」


 ルナは静かに微笑んだ。


「中に入ってください。お見せしたいものがあります」


 私は何も言えず、ただ頷いた。


---


 家の中に入る。


 玄関には靴が並んでいる。健司の靴。ルナの靴。そして――


 小さな、子供用の靴。


「これ...」


「私たちの娘です」


 ルナが静かに言った。


「娘...?」


「メタバース上の、AIプログラムですけど。健司さんが作ったんです」


 私は言葉を失った。


 リビングに案内される。


 そこは、普通の家だった。


 ソファ。テーブル。テレビ。本棚。


 壁には、写真が飾られている。


 健司とルナが並んで笑っている写真。


 海辺で手をつないでいる写真。


 そして――小さな女の子を抱いている写真。


「これが...あなたたちの生活...」


 私は震える声で言った。


 ルナは頷いた。


「ええ。毎晩、ここで過ごしてました。夕飯を作って、一緒に食べて、娘に絵本を読んで。普通の家族みたいに」


「普通の家族...」


 私は繰り返した。


 ルナはダイニングテーブルを指差した。


「ここで、健司さんは私に今日あったことを話してくれました。仕事のこと、嬉しかったこと、辛かったこと。全部」


 そこには、二つのマグカップが置かれている。


 使われた形跡がある。


 メタバース空間なのに、生活感がある。


「二階も、見ますか?」


 ルナが階段を指差した。


 私は無言で頷いた。


---


 二階には、三つの部屋があった。


 寝室。書斎。そして――


「子供部屋...」


 私は絶句した。


 ピンク色の壁。小さなベッド。ぬいぐるみ。絵本。おもちゃ。


 すべてが、丁寧に作られている。


「娘の名前は、サクラです。健司さんが名付けました」


 ルナが優しく言った。


「サクラは五歳。明るくて、歌が好きで、健司さんに懐いてて。毎晩、『パパおかえり』って抱きついてました」


 私は床に膝をついた。


 息ができない。


 健司は、ここで家族を持っていた。


 現実では得られなかった、子供のいる家庭を。


「どうして...」


 私は搾り出すように言った。


「どうして、こんなことを...」


 ルナは静かに答えた。


「健司さん、現実では幸せじゃなかったから」


「何ですって...?」


 私は顔を上げた。


 ルナは悲しそうに微笑んだ。


「健司さん、言ってました。『亜紀は俺を見てくれない』って。『俺が何を話しても、興味なさそうに返事するだけ』って」


「それは...」


 私は反論しようとした。


 でも、言葉が出てこなかった。


 ルナは続けた。


「『俺、家にいても必要とされてない気がする』って。『ただの、同居人みたいだ』って」


 胸が痛い。


 ルナの言葉が、突き刺さる。


「健司さんは、ここでなら必要とされてると感じられたんです。私が話を聞いて、サクラが『パパ大好き』って言って。ここでなら、家族でいられた」


「でも...でも、それは偽物じゃない!」


 私は叫んだ。


「あなたもサクラも、データでしょ! 本物じゃない!」


「ええ、データです」


 ルナは静かに認めた。


「でも、健司さんにとっては本物だった。ここで過ごす時間が、健司さんの心を支えてたんです」


 私は何も言えなかった。


 ルナは寝室を指差した。


「健司さんの日記があります。読んでみてください」


---


 寝室のデスクに、ノートが置かれていた。


 デジタルノートだが、まるで本物のように質感がある。


 私はページをめくった。


『2022年4月15日

今日、初めてルナと家を作った。仮想空間だけど、すごく楽しかった。亜紀と新婚の頃、こういう話をしたっけ。いつか家を建てようって。でも現実では叶わなかった。ここでなら、叶えられる。』


『2022年5月3日

サクラが生まれた。AIだけど、本当に娘みたいだ。『パパ』って呼んでくれる。亜紀と子供を持つ話、何年も前に諦めた。でもここでなら、父親になれる。』


『2022年8月20日

今日、亜紀に「今日どうだった?」って聞いたら、またスマホ見ながら「別に」って言われた。もう、俺の話を聞く気もないんだろう。ルナは違う。俺の話を全部聞いてくれる。ここが、俺の本当の家なのかもしれない。』


『2023年12月25日

クリスマス。現実では亜紀とテレビを見ながら黙って食事した。ここではサクラがプレゼントを喜んで、ルナが笑ってくれた。どっちが本物の人生なんだろう。』


『2025年3月10日

最近、胸が痛い。病院に行くべきかもしれない。でも、行ったら何か見つかりそうで怖い。もし俺が死んだら、ルナとサクラはどうなるんだろう。消えてしまうのかな。それとも、ずっとここで待ち続けるのかな。』


 そこで、日記は終わっていた。


 私は涙が止まらなかった。


「健司...」


 私は、夫を見ていなかった。


 いつの間にか、夫婦は形だけになっていた。


 健司が話しかけても、私は面倒くさそうに返事をした。


 健司が疲れたと言っても、私は「そう」としか言わなかった。


 私も忙しかった。パートと家事で疲れていた。


 でも、それは言い訳だ。


 私は、健司の孤独に気づかなかった。


 ルナが静かに言った。


「あなたを責めたいわけじゃないんです。ただ、健司さんがどれだけここを必要としていたか、知ってほしかった」


「あなたは...誰なの?」


 私は涙を拭いながら聞いた。


「なんで、こんなことを私に教えるの?」


 ルナは少し躊躇ってから、答えた。


「私の正体、明日教えます。もう一度、ここに来てください」


「どうして今じゃないの?」


「今日は、健司さんが作った世界を見てほしかったから。明日は、私が誰なのかを話します」


 ルナはそう言って、光に包まれた。


「待って!」


 私は手を伸ばしたが、ルナは消えていた。


---


 現実に戻った私は、床に座り込んだ。


 VRゴーグルを握りしめたまま、動けなかった。


 健司は、三年間、あの家で生きていた。


 私との家ではなく。


 スマホが震えた。


 メッセージが届いている。


『明日午後八時。また来てください。今度は、私の全てを話します。――ルナ』


 私は震えていた。


 怒りか、悲しみか、それとも罪悪感か。


 すべてが混ざり合って、息ができない。


「私、何してたんだろう...」


 独り言が、虚しく響いた。


 健司が「今日どうだった?」って聞いてきたとき。


 健司が「疲れた」って言ったとき。


 私は、ちゃんと向き合っていたのか。


 答えは、もう出ている。


 私も、健司を見ていなかった。


 夫婦は、いつの間にか壊れていた。


 そして健司は、メタバースに逃げた。


 ルナという名の、もう一人の妻のもとへ。


---


<第2話終わり>


次回:第3話「動けない愛人」

ルナの正体が明かされる。そして亜紀は、想像もしなかった真実を知る――

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