第3話「動けない愛人」
## 愛人は、動けなかった
三日目の午後八時。
私は三度目のログインをした。
転送先は、昨日と同じ白い家の前。
だが今日は、ルナが玄関の外で待っていた。
「来てくれたんですね」
ルナは静かに微笑んだ。
今日は、いつもと少し違う。表情が硬い。覚悟を決めたような顔をしている。
「今日は、私のことを話します」
「...聞かせて」
私は答えた。
ルナは頷き、手を伸ばした。
すると、目の前に半透明のウィンドウが現れた。
プロフィール画面だ。
『ユーザー名:Luna(ルナ)
本名:佐々木真理子
年齢:35歳
居住地:東京都世田谷区
職業:なし(療養中)
登録日:2022年3月1日
総ログイン時間:3,247時間』
私は息を呑んだ。
3,247時間。
三年間で、これほどの時間をメタバースで過ごしていた。
「佐々木...真理子...」
私は名前を繰り返した。
ルナ――真理子は、静かに続けた。
「私、ALS患者なんです」
「ALS...?」
「筋萎縮性側索硬化症。進行性の神経難病です」
真理子の声が、震えた。
「四年前に発症しました。最初は手が動かしにくくなって、それから足が、腕が、全身が。今は、首から下がほとんど動きません」
私は言葉を失った。
真理子は続けた。
「現実の私は、ベッドの上で寝たきりです。話すこともできない。食事も、呼吸も、機械の助けが必要。外に出ることもできない」
「それじゃ...」
「ええ。メタバースだけが、私が動ける唯一の場所なんです」
真理子はそう言って、自分の手を見つめた。
銀髪の、美しいアバターの手。
現実では動かない手。
「視線追跡システムとAI音声合成を使って、ここにログインしてます。目を動かすだけで操作できる。ここでなら、私は歩ける。走れる。笑える。生きていられる」
私は胸が苦しくなった。
真理子は、メタバースでしか生きられない。
そして健司は――
「健司さんと出会ったのは、患者支援コミュニティでした」
真理子が言った。
「健司さんの会社が運営してる、難病患者のためのメタバース空間。そこで、初めて話したんです」
---
真理子は、記憶を辿るように語り始めた。
「最初は、ただの相談相手でした。健司さんは技術担当で、私はユーザー。『システムの使い方、分からないことがあれば聞いてください』って、優しく教えてくれた」
真理子の表情が、柔らかくなる。
「それから、週に一回、二回と話すようになって。私の病気のこと、健司さんの仕事のこと。いろんなことを話しました」
「健司が...相談に乗ってたの?」
「ええ。でも、だんだん健司さんも私に、悩みを打ち明けてくれるようになって」
真理子は少し躊躇ってから、続けた。
「健司さん、言ってました。『家に帰っても、誰も俺を必要としてない気がする』って」
私は唇を噛んだ。
「『妻は俺の話を聞いてくれない。仕事のことを話しても、『そう』って返事するだけ。疲れたって言っても、『私も疲れてる』って言われる』」
「それは...」
私は反論しようとした。
でも、真理子は構わず続けた。
「『子供が欲しかったけど、叶わなかった。妻はもう、その話をしたくないみたいだ。俺も、諦めた』」
胸に、何かが刺さる。
真理子の言葉が、一つ一つ、私の心を抉る。
「『俺、家で必要とされてないんだと思う。ただの、金を稼ぐ機械。それ以外の価値がない』」
「やめて...」
私は呟いた。
真理子は、悲しそうに首を振った。
「ごめんなさい。でも、これが健司さんが抱えていた気持ちだったんです」
「私だって...」
私は声を震わせた。
「私だって、頑張ってた。パートして、家事して、疲れてた。健司に『仕事頑張ってね』って言ってたのに」
「『仕事頑張ってね』だけ、だったんですか?」
真理子の言葉が、突き刺さった。
「健司さんが何に悩んでたか、知ってましたか? どんなプロジェクトを抱えてたか、誰と揉めてたか、何を不安に思ってたか」
「それは...」
私は答えられなかった。
知らなかった。
健司が何をしてるのか、詳しくは知らなかった。
「IT関係の仕事」としか認識していなかった。
真理子は続けた。
「私は、健司さんの話を全部聞きました。どんな小さなことでも。それが、私にできる唯一のことだったから」
「あなたは、病気で動けないから時間があったのよ」
私は反射的に言った。
真理子は、静かに頷いた。
「ええ、その通りです。私には時間しかなかった。でも、だからこそ健司さんを支えられた」
私は何も言えなかった。
真理子の表情が、さらに悲しくなる。
「健司さんと私、一年くらい話してるうちに、恋に落ちました。お互いに」
「恋...」
「ええ。おかしいですよね。画面越しの関係なのに。でも、心は本物でした」
真理子は、白い家を見つめた。
「健司さんが『一緒に家を作ろう』って言ってくれたとき、本当に嬉しかった。現実では、私はもう家を持つことも、結婚することも、子供を持つことも諦めてた。でもメタバースでなら、叶えられる」
「それで、あの家を...」
「ええ。二人で一つ一つ、作りました。リビングも、キッチンも、寝室も。サクラも、健司さんが私のために作ってくれたんです」
真理子の目から、涙が流れた。
アバターなのに、涙が流れる。
「健司さん、言ってました。『ルナと過ごす時間が、俺の心を救ってる』って。『ここでなら、本当の自分でいられる』って」
---
私は、床に座り込んだ。
力が抜けた。
真理子は、私の隣に座った。
「あなたを責めたいわけじゃないんです」
真理子が静かに言った。
「ただ、健司さんがどれだけ苦しんでたか、知ってほしかった」
「私...何してたんだろう...」
私は呟いた。
「健司が話しかけてきたとき、私、スマホばっか見てた。Instagramの『いいね』を数えて、フォロワーのコメントに返信して。それが楽しかった。現実の生活より、SNSの中の私の方が輝いてた」
真理子は何も言わなかった。
「健司が『疲れた』って言ったとき、私『私も疲れてる』って言い返してた。夫婦なのに、競争してた。どっちが大変か、どっちが偉いか」
涙が溢れた。
「健司が何に悩んでたか、私、知らなかった。知ろうともしなかった。『仕事頑張ってね』って言えば、妻の役割は果たしてると思ってた」
真理子は、優しく私の肩に手を置いた。
「でも、あなたも苦しんでたんですよね」
「え...?」
「あなたも、孤独だったんじゃないですか? 誰も自分を見てくれない、認めてくれないって」
私は、ハッとした。
真理子は続けた。
「だからSNSに逃げた。そこでなら、『いいね』がもらえる。承認される。必要とされる。それは、健司さんがメタバースに逃げたのと同じです」
「同じ...」
「ええ。あなたも健司さんも、現実で孤独だった。だから、別の場所に居場所を求めた」
真理子の言葉が、胸に沁みた。
私は、健司と同じだった。
お互いに孤独で、お互いに逃げていた。
ただ、逃げた場所が違っただけ。
私はSNS。
健司はメタバース。
「私たち...夫婦じゃなかったのかな...」
私は震える声で言った。
真理子は、悲しそうに微笑んだ。
「分かりません。でも、健司さんはあなたを憎んでたわけじゃない。日記に書いてありました。『亜紀を傷つけたくない。でも、もう俺には帰る場所がない』って」
「帰る場所...」
「健司さん、最後まであなたのことを気にかけてました。『もし俺が死んだら、亜紀はどうなるんだろう』って」
私は声を上げて泣いた。
健司。
あなたは、そんなことを考えてたの。
私が気づかないところで、ずっと苦しんでたの。
真理子は、静かに立ち上がった。
「あなたに、伝えなきゃいけないことがもう一つあります」
「まだ...何かあるの...?」
私は涙を拭いながら顔を上げた。
真理子は、深く息を吸った。
そして――
「私、あなたから奪ったものがあるんです」
「奪った...?」
「健司さんの、最期の時間」
私は凍りついた。
真理子は続けた。
「健司さんが亡くなったとき、そばにいたのは私でした。メタバースの中で」
「え...」
「健司さん、最後のログインのとき、『胸が苦しい』って言ってました。でも『大丈夫、少し休めば治る』って。私、救急車を呼ぶように言ったんです。でも健司さんは『もう少しだけ、ルナと一緒にいたい』って」
真理子の声が、震えた。
「そして、ログアウトした直後に...倒れたんです」
私は立ち上がれなかった。
真理子は、涙を流しながら続けた。
「もし私が強く止めてたら、健司さんは助かったかもしれない。でも私、健司さんと一緒にいたくて...止められなかった」
「あなた...」
「ごめんなさい」
真理子は深く頭を下げた。
「私が、健司さんを殺したんです」
---
私は、真理子を見つめた。
彼女は泣いていた。
現実では動けない体で、それでも心は泣いていた。
私は――
怒るべきだった。
責めるべきだった。
でも、できなかった。
真理子も、苦しんでいる。
健司を愛して、健司に救われて、それでも健司を失った。
私と同じように。
「あなたは...今、どこにいるの?」
私は聞いた。
真理子は答えた。
「世田谷の病院です。個室で、一人で」
「家族は?」
「両親は三年前に亡くなりました。兄弟はいません。独りです」
私は立ち上がった。
「明日、会いに行きます」
「え...?」
真理子は驚いた顔をした。
「現実のあなたに、会いたい」
「どうして...?」
「分からない」
私は正直に答えた。
「でも、会わなきゃいけない気がする。あなたと、ちゃんと話さなきゃ」
真理子は、しばらく黙っていた。
それから、静かに頷いた。
「分かりました。明日、待ってます」
---
ログアウトした後、私は長い間、動けなかった。
真理子は、健司の愛人だった。
でも同時に、健司を救った人だった。
そして、健司の最期を看取った人だった。
私じゃなく。
スマホが震えた。
真理子からメッセージが届いていた。
『世田谷中央病院、6階、個室603号。明日、いつでも来てください。――真理子』
私は、カレンダーを見た。
明日は土曜日。
パートは休み。
行ける。
でも、行ったら何を話せばいいのか。
私には、まだ分からなかった。
---
<第3話終わり>
次回:第4話「見えなかった夫」
亜紀は病院へ向かう。そこで見たものは――現実の真理子、そして健司が遺した、最後のメッセージ
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