case.2[赤口]とんでもない
01
ランチに行こうと言い出したのは
三連休初日。土曜の昼。人で賑わう駅前通り。女性の頭を起点に広がる真っ赤な浅い血の池に、行き交う人は見向きもしない。
……まあ、つまりそういうことだ。
悩むまでもなく迷うこともなく断言できる。あれは幽霊——すでに死んでいる人だ。
こんなに天気の良い休日のデート中に本当に迷惑なことに突然現れたそれに苦情を言いに行きたいところだが、話しかけるという案は当然見送る。興味がないかと聞かれてしまうと全くないとは言い切れないが、そんなことより今は綴の機嫌の方が問題だ。
「オムライスとかどう?」
しばらく女性の幽霊を眺めていた綴は、そう言って僕の目を見て微笑んだ。センスは認めるが趣味が悪い。
たしかに何を食べたいかと聞かれて「何でもいいよ」と答えた僕にも悪い部分があるのかもしれないが、あれを見てそんな提案をしてくるのはあまりにも——いや。こういう時はひとまず謝罪だ。
「ごめん、近くで人気の店調べてみるよ。オムライス以外で」
「そうね。是非そうして」
真顔になった綴から目を逸らしてみたが、視線の行き場が見つからないので仕方なく、どうしようもなく、嫌々渋々幽霊に目をやった。
黒のシャツにデニム。おかしな方向に足を曲げ、長い黒髪を地面に咲かせる二十代半ばくらいの女性の幽霊。見開いた目がこちらに向いていたので、見えていることを悟られないよう慌てて後ろのビルに視点を合わせた。
あれは関わらない方がいい。
事故なのか事件なのかそもそも死因が落下死なのか。詳しいことは勿論何もわからないが、どう見てもあの目は穏やかなものではない。
ゆっくりと体を起こし始めた女性の幽霊は、まず四つん這いになり、何かを探すように首を何度か振ったあと、のっそりと立ち上がった。曲がっていた二本の足はいつの間にか通常の形状に戻っており、アスファルトの上にできていた血の池が徐々に薄くなっていく。
「
何事もなかったかのように、赤の部分が地面から消えたところで綴が僕を呼んだ。
「どうかした?」
視線はそのまま動かさず、適当に返事をした。
女性の幽霊は立ち上がったあともしばらく辺りを見回していたが、背後のビルの一階にあるガラスの扉を見つめたまま動かなくなった。
——あのビルから。
女性の向こうに佇むそのビルを下から順に見上げていく。扉は一階のカフェの入口で、上階に行くには隣の階段からなのだろう。二階から上の窓に貼られた紙や看板がそれぞれ別の店舗のものだ。マッサージ店、美容室、四、五階は特に何も書かれていない。
あそこから落ちてきたのだろうか。
最上階の、五階の窓。ビルの外側に向かって飛び出た片開きの窓。通りに面した窓はいくつもあるが、あの窓だけが不自然に開いている。屋上があるのならそちらかもしれないが、そうでなければあの窓から——
「デートの最中に他の女の人を熱心に見るっていうのはどうなのかしら」
本当にその通りだと思う。
どうせ関わることもないのだから色々と考える必要などない。僅かな興味で行っていた幽霊の観察をきっぱり止めて、綴の方に顔も体も意識も向ける。
「あの人を見てたわけじゃないよ。ごめん」
嘘ではない。半分くらい。
「別に謝って欲しいわけではないけど」
「ランチの候補にあのカフェは……と思って見てただけだよ。でも、やっぱりちゃんと調べようかな」
嘘の部分はきっと綴に見抜かれているが、指摘されていないということは見逃してもらえているということだ。わざとらしく大袈裟な動きでポケットから端末を取り出し、検索欄にそれらしいワードを入力した。
「この店とかどう? 海沿いの」
上から二つ目に出てきた店を綴に見せる。
ネットに転がる評価の表示に踊らされている気分になってしまうので極力自ら店を選びたくない、と常々思っているだけで、調べることが面倒だったというわけではない。
画面に並ぶ店舗情報と星と数字。美味しいから高評価なのか、高評価だから美味しいのか。
「いいんじゃない?」
星が四つと少しの店を見て、綴は興味なさそうに言い放った。とりあえず機嫌は良くなっている気がするのでここに決めてしまって良いだろう。
カップルに人気の海が見える店。
見知らぬ人のレビューと評価。
きっと僕はおすすめと書かれているこのパスタを頼むのだろうし、店を出てすぐ「美味しかった」と言うのだろう。
*
「美味しかった」
値段の割に量が少ないカルボナーラを平らげて、三十分ほどで店をあとにし、僕はほぼ決まっていた台詞をしっかり口にした。
「良いお店だったね」
「だよね。また来よう」
評価に踊らされているわけでも、綴の感想に流されているわけでもない。多分。
窓から見えた冬の海も値段に含まれているのだと思えば納得できないわけではないし、味も接客も不満な点は一つもない。特別良かった点もなかったが。
普通の、悪いところがない店。
「帰ろっか」
満足そうな表情を浮かべてこちらに手を伸ばす綴と二人で過ごす、ほんの少し特別な日に訪れた普通の店。
——普通というのは思っている以上に価値のある、評価されるべきポイントなのだということにしておこう。
「そうだね。帰ろう」
最寄駅から三駅。普段この辺りに来ることはあまりないが、行きたい場所もやりたいことも特にない。目的のランチデートは楽しんだわけだし残りの今日は家でゆっくり過ごそう。
そんなことを考えながらポケットから取り出した端末が。時計の機能を求めて手に取ったそれが、着信を知らせるために震えた。
迷惑な電話と表示された画面からそっと目を離す。出ないとしつこいし出ると面倒な、名前の通り迷惑な電話。
大きく息を吐き出して、気が乗らないまま通話ボタンにそっと触れた。
「……はい」
『あ、巡。久しぶり。あれ? そんなに久しぶりでもないか。ボクは元気だけど、元気?』
電話の向こうの彼女は——
「たった今、元気じゃなくなった」
『そうなんだ。それは何よりだね。それよりさ。今日、
だったら聞くな。
「居たよ。それで?」
『綴ちゃんとデート? いいなー。ボクも誘ってくれればいいのに。まあ、そんなことはどうでもいいんだけどさ、巡も見たでしょ? ビルから落ちる幽霊。気になるよね』
ビルから落ちる幽霊。さっきの女性の幽霊。
何故、死んだあともあそこに居るのだろうか。何故、死んでいるのにあらためて落ちてきたのだろうか。何度も繰り返し死んでいるのだろうか。
「……全然気にならない」
『そうだよね。ボクも気になったんだけど今日は急いでてさ。明日暇だよね? じゃあ昼前にあのビル集合で。お昼は行きたいお店があるから付き合ってね。もちろん綴ちゃんも一緒に』
「暇じゃない」
電話はすでに切れていた。
名前に恥じない迷惑な電話。
「誰から?」
「華火。明日も二人でここに来いって」
僕が女性と二人きりで出かけることを良く思わないだろうという気遣いも含めて綴を誘っているのだろうが、そんなことよりまずは人の話を聞いて欲しい。
「そう。私は忙しいから」
そして綴は来ないつもりだ。
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