第6話 グレイブ・ウルフとコトバ

「……グルルルルァァ……」


 万魔の坩堝パンデモニウム瘴気しょうきをまとった腐狼グレイブ・ウルフが、二人を獲物と定め、低い唸り声を上げた。


 ドガァァァン!! と吹き飛ばされたバリケードの瓦礫が、中庭に散乱する。牛ほどの巨体に六本の脚、そして剥き出しの骨と腐肉。およそこの世のものとは思えない、悪夢のような姿だった。


「ひ……!」


 ソフィアが息を飲む。数百年ぶりの「他者」との遭遇が、これ以上ない最悪の形となった。


「ソフィア、下がってろ。泉のそばから離れんな」


 竜二は、手に持っていた「折れた槍の柄」を握り直し、彼女を庇うように一歩前に出た。

 背中には聖域の泉。魔力の補給源であり、同時に、絶対に死守しなくてはならない生命線だ。幸い、バリケード構築のために「剛力」を付与したままだった。魔力は消費しているが、まだ切れてはいない。


(……デケえ。ケンカ相手が熊になったみてえだ)


 竜二は、迫りくるプレッシャーにも動じず、ヤンキー時代に培った胆力で敵を睨み据える。


「りゅ、竜二……! あれは腐狼グレイブ・ウルフ……! 万魔の坩堝パンデモニウムの浅層……ううん、中層の魔物……!」


 背後から、ソフィアの震える声が飛ぶ。 彼女は恐怖で体を強張らせながらも、竜二に情報を伝えようと必死だった。


「……弱点は、頭……! でも、あの腐った体は、普通のやいばじゃ……!」

「……要は、カタいってことか。面倒くせえ!」


 竜二が舌打ちした瞬間、腐狼グレイブ・ウルフが動いた。その巨体からは想像もつかない敏捷さで、床を蹴り、竜二に襲いかかる。


「――グルァ!」

「チッ!」


 狙いは、鋭く研がれた剥き出しの爪。竜二は「剛力」の付与で強化された脚力で、辛うじてその一撃をバックステップで回避する。


 ガギン! と、竜二が先ほどまで立っていた石畳が、爪によって深くえぐられた。


「……やべえな、今の。当たったらミンチだぞ」


 冷や汗が背中を伝う。「剛力」のおかげで反応できたが、これでは防戦一方だ。


「ガアァァ!」


 休む間もなく、腐狼グレイブ・ウルフは第二、第三の攻撃を繰り出してくる。竜二はそれを槍の柄で受け止めようとするが、そのあまりの重さに、腕がきしむ。


(クソ……! 「剛力」だけじゃ、押し負け……!)


 腐狼グレイブ・ウルフの狙いは正確に、竜二を泉から引き離そうとしているようだった。魔物が本能で、あの泉の聖なる力を忌避しているのが分かる。


「りゅ、竜二! 魔力、魔力が……!」

「分かってる!」


 ソフィアの悲鳴。竜二の魔力が、「剛力」の維持と、あり得ない筋力(ちから)での攻防によって、急速に消費されていく。このままでは、押し切られてガス欠になるのが先だ。


(……やるしか、ねえか)


 竜二は、腐狼グレイブ・ウルフの爪を槍で弾き、強引に距離を取ると、即座に概念コトバを切り替える。


(対象、俺。概念コトバ、「剛力」解除! 対象、腐狼グレイブ・ウルフ! 概念コトバ、「鈍重」!)


 竜二の体から力が抜け、代わりに、襲いかかろうとしていた腐狼グレイブ・ウルフの動きが、カクン、と不自然に鈍った。まるで、その体に透明な重りがいくつもくくりつけられたかのように、動きが緩慢になる。


「……グル……?」


 腐狼グレイブ・ウルフ自身も、自分の体の異変に戸惑っている様子を見せる。


「……はぁ……はぁ……。コッチのほうが、燃費マシか……?」


 敵に直接、弱体化デバフ概念コトバを付与する。「剛力」で自分を強化し続けるよりも、魔力の消費は緩やかだった。


「……へっ。ケンカはタイマン、上等だ。……だがな、こっちは二対一だぜ?」


 竜二がニヤリと笑う。


「ソフィア! 今だ、なんかねえか! あいつの弱点、もっとねえのか!」

「え……!? え、えっと……」


 竜二に「ダチ」と呼ばれ、守られるだけではない「役割」を与えられたソフィアは、必死に記憶を探る。


「……あ! 魔石……! 魔物の心臓部には、魔石があるはず! そこが核……!」

「心臓部……! オーケー、上等!」


 動きが鈍ったとはいえ、相手は強力な魔物。「鈍重」の付与も、永遠には続かない。腐狼グレイブ・ウルフが、概念コトバの呪縛を振り払おうと、全身で抵抗しているのが分かる。


(……チッ。ヤケクソの概念コトバだったが、効果は薄いか。……なら!)


 竜二は、聖域の泉を一瞥いちべつする。ここからなら、届く。


(対象、「聖域の泉の水」! 概念コトバ、「飛べ」!)


 竜二は、ガス欠を覚悟で、ありったけの魔力を言霊ことだまに乗せた。瞬間、ソフィアが驚愕に目を見開く。


「え……!?」


 聖域の泉の水が、竜二の意志に応え、まるで生き物のように十数本の「水の槍」となって宙に浮かび上がった。

 腐狼グレイブ・ウルフが、その異常事態に気づき、竜二に向かって最後の跳躍をしようとする。


「……遅えよ、バーカ」


概念コトバ、「貫け」!)


 十数本の「聖水の槍」が、音速で射出された。それは、万魔の坩堝パンデモニウム瘴気しょうきに汚染された腐狼グレイブ・ウルフにとって、天敵とも言える高純度の魔力マナの塊。


 ジュウウゥゥゥ!! 聖水が、腐狼グレイブ・ウルフの腐肉に触れた瞬間、その体を蒸発させ、浄化していく。


「――ギャアアアアアアアアアアア!!」


 腐狼グレイブ・ウルフが、断末魔の叫びを上げた。体のあちこちを聖水に貫かれ、その巨体がもろくも崩れ落ちる。

 だが、まだ息はあった。心臓部、ソフィアが言っていた「魔石」だけが、聖なる浄化の力に耐え、不気味に赤黒く脈打っている。


「……しぶとすぎんだろ、クソが……!」


 竜二は、聖水を操るという無茶な言霊付与ワード・エンチャントを使ったせいで、完全にガス欠を起こし、その場に膝をついていた。


 もう、指一本動かす魔力も残っていない。


「……グル……」


 腐狼グレイブ・ウルフが、最後の力を振り絞り、這いずるようにして、竜二に近づこうとする。


「……やべえ……。調子、乗りすぎた……」


 竜二が、自分の燃費の悪さを呪った、その時。


「――竜二に、近寄らないで!!」


 か細い、しかし、芯の通った声が響いた。ソフィアだった。彼女は、竜二が倒した瓦礫の破片……その中で、最も鋭く尖った石を、震える両手で握りしめていた。そして、腐狼グレイブ・ウルフの前に、立ちはだかる。


「……グル?」

「私は……! 私は、もう、守られるだけじゃ……終わらない!」


 ソフィアは、聖域の泉の水を飲んで回復した、ほんのわずかな魔力を、その石に込める。それは彼女の種族、吸血鬼ヴァンパイアとしての、本能の力。


「……私の『ダチ』に……! 触るな……!」


 ソフィアは、その尖った石を、腐狼グレイブ・ウルフの剥き出しになった心臓部……赤黒く脈打つ「魔石」に向かって、渾身の力で突き刺した。


 パリン。


 まるでガラスが割れるような、軽い音が響いた。 腐狼グレイブ・ウルフの巨体が、ビクン、と大きく痙攣けいれんする。 そして、その赤黒かった魔石の光が急速に失われ……次の瞬間、体全体が、ボロボロと塵になって崩れ落ちていった。


「……あ……」


 ソフィアは、その場にへなへなと座り込む。竜二は、その一連の光景を、ただ呆然と見つめていた。


「……はぁ……はぁ……。やった……。やった、よ……竜二……!」


 ソフィアが、涙目で竜二を振り返る。数百年間、呪いに怯え、諦めていた姫が、初めて自分の意志で「敵」を倒した瞬間だった。


「……へっ。……上等、じゃねえか……」


 竜二は、ガス欠のまま、地面に大の字になると、悪態をつくように笑った。


「……アンタ、なかなか……ヤンキーの才能、あんだろ……」


 絶望の底、万魔の坩堝パンデモニウムで。 ハズレ職の元ヤンキーと、呪われた吸血姫は、こうして初めての「勝利」を、二人で掴み取ったのだった。



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