第5話 聖水とチキンレース

 冷たい聖水が、竜二の乾ききった喉を潤し、枯渇した魔力回路に染み込んでいく。それはまるで、ガス欠のタンクにガソリンが注ぎ込まれるような、明確な「回復」の感覚だった。


「……はぁ。生き返る……」


 数回に分けてソフィアの手から水を受け取り、竜二はようやく上半身を起こすことができた。指一本動かすのも億劫だった全身の倦怠感が、急速に薄れていく。

 ハズレ職の元ヤンキーと、呪われた吸血姫。二人はこの絶望の底で、初めて「共生」の一歩を踏み出した。


「……アンタも、飲んどけ。顔色、まだ紙みてえだぞ」

「……うん」


 竜二に促され、ソフィアも再び泉の水を口に含んだ。彼女にとっても、これは数百年ぶりの「まともな食事」だった。

 ほんの少しだが、衰弱しきっていた彼女の頬に血の気が戻り、淀んでいた赤い瞳に理性の光が宿る。


「……信じられない。私、竜二に触れて……生きてる人と、話してる……」


 ソフィアは、自分の両手を見つめながら、震える声で呟いた。その姿は、古代の姫というよりは、長い悪夢から覚めたばかりの幼い少女のようだった。


「ああ。……だが、ギリギリのチキンレースだったみてえだな」


 竜二は、まだ痛む体をさすりながら立ち上がった。魔力は回復したとはいえ、全快には程遠い。三割、といったところか。


「なあ、ソフィア。俺のこの力……『付与術師エンチャンター』ってのは、一体何なんだ? アンタの呪いを『肩代わり』できるなんざ、普通じゃねえだろ」


 竜二が自分の職業ジョブについて尋ねると、ソフィアはコクリと頷いた。


「……うん。あなたのそれは、ただの『付与術師』じゃない。……たぶん、『言霊付与ワード・エンチャント』と呼ばれる、失われた神代かみよの力だと思う」

言霊付与ワード・エンチャント?」

「はい。普通の付与術師は、決められた属性や強化を『お願い』して付与するだけ。でも、あなたの力は違う。……概念コトバで、世界の法則を『上書き』してる」


 ソフィアは必死に説明しようとする。


「石に『光れ』と命じたり、私への呪いを『肩代わり』したり……。それは、術者が望んだ『結果』そのものを、強制的に発現させる力。……神様の御業みわざに近いの」

「……神様の、ね」


 竜二は、その大層な説明を聞いても、ピンと来ていなかった。 彼にとって、この力は「フワリ」や「光れ」といった、ケンカのノリで使った「気合」のようなものだ。


「……面倒くせえ理屈はどうでもいい。要は、俺が『こうなれ』って強く思えば、大抵のことはどうにかなるって解釈でいいか?」

「あ、あまりにも雑な解釈……! で、でも、おおむねは……」


 ソフィアが困惑したように俯く。 竜二はガシガシと頭を掻いた。


「だが、問題がある」


 彼は自分の手のひらを見つめる。


「コイツは、『燃費』が最悪だ。さっきアンタをここまで運ぶだけで、俺は空っぽになった。……アンタの呪いがヤバすぎるせいかもしれねえが」

「……ごめんなさい……」

「謝んな。事実だろ」


 竜二は、シュンとなるソフィアの頭を小突くフリをした。


「それに、アンタもだ。その水飲んで、多少マシになったみてえだが……まだ自力で歩くのもやっとだろ。本来の力ってのは、どうなんだ?」


 問われたソフィアは、力なく首を振った。


「……吸血鬼ヴァンパイアは、魔力を糧に、魔力で戦います。でも、私は……数百年、魔力が枯渇した場所にいた。今は、人間の赤子よりも弱いです」

「……だよな」


 状況は、少し改善したが、依然として最悪だった。竜二の力は「燃費最悪の切り札」。ソフィアは「戦闘力ゼロの要介護者」。そして、ここは強力な魔物が跋扈ばっこする万魔の坩堝パンデモニウムの底。


「……まずは、ここを拠点アジトにするぞ」


 竜二は、聖域の泉が湧く中庭を見渡した。天井は崩れているが、四方は堅牢な城の回廊に囲まれている。出入り口を塞げば、簡易的な要塞にはなりそうだ。


「ここなら、アンタの呪いも関係ねえ。それに、水……いや、魔力マナがいつでも補給できる」

「うん……!」

「俺の力がどれだけ燃費悪くても、この泉のそばにいりゃ、ガス欠は防げるかもしれねえ。……チキンレースには変わりねえが」


 当面の安全が確保できる、と判断した竜二は、次の手を考える。


「アンタがまともに動けるようになるまで、ここを動くのは得策じゃねえ。……ソフィア、この城に、他に魔力マナになりそうなモンはねえのか?」

「はい、確か……父の書斎や、宝物庫に……。魔石が……。でも、そこまで行くには、回廊を通らないと……」


 ソフィアが不安そうに回廊の暗闇を見つめる。この城は、彼女が封印されてから数百年、魔物の巣窟となっている可能性が高い。


「……だろうな。その前に、武器の一つでも欲しいところだ」


 竜二はそう呟くと、中庭の隅に転がっていた、手頃な長さの「鉄パイプ」のように扱える、「折れた槍の柄」のようなものを拾い上げた。 ブン、と軽く振ってみる。馴染む。


「よし。まずは、この中庭を塞ぐぞ。瓦礫でも何でもいい、バリケードを作る」


 竜二はそう言うと、手始めに一番近くにあった崩れた柱の残骸に手をかけた。だが、それはびくともしない。


「……クソ、重すぎだろ……」

「りゅ、竜二、無茶は……!」

「……チッ。しゃあねえ、使うか」


 竜二は、聖水で回復したばかりの魔力を、再び練り上げる。


 対象、「俺の腕」。 概念コトバ、「剛力」。


 瞬間、魔力が腕に集中し、筋肉がミシリときしむ。 さっきまでの疲労が嘘のように、力がみなぎってきた。


「おお……」


 竜二が再び瓦礫に手をかけると、今度は軽々と持ち上がった。


「……なるほどな。こりゃ、使い方次第じゃ、どうとでもなるぞ」


 竜二はニヤリと笑うと、その瓦礫を、中庭の入り口である回廊の扉部分へと運んでいく。


「ソフィア、アンタはそこで休んでろ。……いや、アンタにも仕事だ」

「え? わ、私にできること……」

「ああ。魔物だ。俺が作業してる間に、もし魔物ヤバイのが来たら、すぐに教えろ。アンタ、気配とか分かんだろ?」

「……! うん、わかった!」


 ソフィアは、初めて「役割」を与えられたことに、緊張した面持ちで頷いた。

 竜二は「剛力」を付与したまま、次々と瓦礫を運び、入り口を塞ぎ始める。魔力は消費していくが、聖水を飲めば回復できる。この泉のそばである限り、制限付きだが竜二はその力を自在に振るうことができた。


 数時間後。中庭の四方の出入り口は、竜二が組み上げた瓦礫によって、簡易的ながらも強固なバリケードで塞がれていた。


「……ふぅ。こんなモンだろ」


 竜二が、聖水を飲み干して一息ついた、その時だった。


「――竜二!!」


 ソフィアが、今まで聞いたこともないような、切羽詰まった声を上げた。彼女は、バリケードの隙間の向こう……暗い回廊の一点を、恐怖に見開いた目で見つめている。


「……来る! なにか、大きいのが……!」


 ソフィアの言葉を裏付けるように、バリケードの向こう側から、音が聞こえ始めた。

 ガリ、ガリ……。 何かが、竜二が積み上げた瓦礫を、強引に爪で引っ掻き、こじ開けようとしている音だった。


「……チッ。早速のお出まし、かよ」


 竜二は、手に持っていた「折れた槍の柄」を握り直す。聖水を飲んで魔力は回復している。だが、相手は正体不明の魔物。


(「剛力」だけじゃ、勝てるか分かんねえ……)


 ガリガリ、という音は、やがて、ドゴン! ドゴン! という、凄まじい体当たりの音に変わった。バリケードが、衝撃で揺れる。


「ひ……!」


 ソフィアが小さく悲鳴を上げる。


「ソフィア、下がってろ。泉のそばから離れんな」


 竜二は、彼女を庇うようにバリケードの前に立つ。そして、相手の「力」に対抗するため、自分の武器に意識を集中した。


(対象、「この槍」。概念コトバは……「斬鉄」? いや、「貫通」か? ……どっちも面倒くせえな)


 竜二が、どの概念コトバを選ぶか迷った、その瞬間。


 ドガァァァン!! ひときわ大きな音と共に、バリケードの一部が吹き飛び、そこから巨大な「何か」が姿を現した。

 それは、牛ほどの大きさもある、六本足の巨大な狼だった。その体は、万魔の坩堝パンデモニウム瘴気しょうきによって、皮膚が所々腐り落ち、骨が剥き出しになっている。


「……グルルルルァァ……」


 腐った狼――腐狼グレイブ・ウルフが、二人を獲物と定め、涎を垂らしながら低い唸り声を上げた。



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