第4話 聖域の泉

「……行くぜ。中庭、だったな。どっちだ」

「……まっすぐ。あの、西の扉を抜けて……」


 ソフィアは、竜二の背中の体温を感じながら、か細い声で、しかし確かに前を指差した。ハズレ職の元ヤンキーと、呪われた吸血姫。二人の万魔の坩堝パンデモニウムからの脱出劇は、こうして、あまりにも無謀な一歩から始まった。


「ぐ……ッ!」


 一歩、踏み出す。ズシリ、と背中にのしかかる重み。それはソフィア本人の体重ではない。彼女の呪いを「肩代わり」することによる、魔力の流出という名の「重圧」だ。竜二は即座に概念コトバを重ねがけした。


(対象、「俺」。概念コトバ、「持久」!)


 わずかに圧力が軽減される。だが、それは焼け石に水だった。蛇口から水が流れ出るのを、指で必死に押さえているようなものだ。奔流は止まらず、隙間から魔力が噴出し続けていく。

 二歩、三歩。たったそれだけで、竜二の額には玉の汗が浮かび、呼吸が荒くなった。足が、鉛を引きずるように重い。


「りゅ、竜二……! もう、いい……です。降ろして……」


 背中ですら、彼の消耗が伝わってくる。ソフィアが、悲鳴のような声を上げた。自分が「厄災」であるという事実が、彼女の心を苛む。


「……うるせえ」


 竜二は、荒い息の合間に吐き捨てた。


「決めたこと、曲げる趣味はねえんだよ。……それに、この程度……十人がかりのケンカより、マシだ」


 ヤンキー特有の、意味不明な意地と見栄。だが、その無謀な強がりが、ソフィアの不安を不思議と鎮めていく。

 竜二は歯を食いしばり、ソフィアが指差す西の扉……かつては豪華だったであろう、今は朽ち果てた木製の扉を、蹴破るようにして開いた。


 ◧◨


 扉の先は、回廊になっていた。壁は崩れ、かつて飾られていたであろう絵画は腐り落ちている。

 竜二は、光源として使っている「光る石」を懐から取り出し、回廊の先を照らした。 ゴウ、と不気味な風が吹き抜ける。ここが万魔の坩堝パンデモニウムの底であることを、否応なく思い出させた。


(面倒くせえ……。マジで、一歩が重い……)


 自分に「持久」を付与していなければ、今頃とっくに倒れていただろう。この『付与術師エンチャンター』の力は、どうやらとんでもない「燃費」の悪さを抱えているらしい。

 特に、ソフィアの呪いのような、神代かみよ呪戒じゅかいレベルのものを「肩代わり」するなど、自殺行為に等しい。だが、竜二は止まらなかった。ここで止まれば、この背中で震えている女は、またあの玉座で「終わり」を待つだけの日々に戻るのだ。それだけは、彼の「義理」が許さなかった。


「……竜二……」

「……黙って、道だけ示せ。口開くと、舌噛むぜ」


 竜二がそう軽口を叩いた瞬間、彼の膝がガクリと折れた。


「きゃっ……!」

「……おっと。クソ、調子乗った……」


 慌てて壁に手をつき、倒れ込むのを防ぐ。 魔力欠乏の眩暈めまいが、視界を揺らしていた。


「もう、だめ……! 私を置いて、逃げて……! あなたまで、私に喰われる……!」

「……テメエ、さっきからうるせえぞ」


 竜二は、壁に寄りかかったまま、荒い息を整える。


「いいか、ソフィア。俺はな、アンタに頼まれて背負ってんじゃねえ。俺が、そうしたいからやってんだ」

「え……」

「アンタは、俺が助けると決めた『ダチ』だ。……ダチ見捨てて逃げるほど、俺は落ちぶれちゃいねえ」


 竜二は、再びよろよろと足を踏み出す。その背中に、ソフィアは言葉を失った。

「ダチ」――友達。数百年、誰にも触れられず、恐れられ、忘れ去られていた彼女にとって、それはあまりにも眩しい響きだった。


「……あそこ。あの、光が……」


 ソフィアが指差す回廊の突き当たり。そこはドーム状の中庭になっており、天井が大きく崩落していた。

 はるか上空、万魔の坩堝パンデモニウムの入り口とはまた別の、地表へと続く縦穴が、皮肉にも月光の役割を果たしている。そして、その中庭の中央。瓦礫に囲まれた一角だけが、青白い、清浄な光を放っていた。


 小さな泉だ。ソフィアの呪いにも侵されず、今もなお、こんこんと聖なる水を湧き出させている。


「……『聖域の泉』。ここは……私の呪いが、及ばない場所……」

「……チッ。やっと、着いたかよ……」


 竜二は、最後の力を振り絞り、その泉のほとりまで歩くと、ソフィアをそっと降ろした。

 次の瞬間、糸が切れたように「肩代わり」と「持久」の付与が解け、竜二はそのまま地面に崩れ落ちた。


「……はぁっ……はぁっ……。マジ、で……死ぬか、と……」


 全身の血管から、魔力が逆流するような激しい疲労感。指一本動かすのも億劫だ。


「竜二っ!」


 ソフィアが悲鳴を上げる。だが、彼女は竜二に駆け寄れない。触れれば、今度こそ彼を殺してしまう。

 ソフィアは、数瞬、迷った。しかし、すぐに意を決すると、震える足で泉へと這い寄った。そして、その聖なる水を両手ですくい、ゴクリ、ゴクリと喉を鳴らして飲み干す。

 冷たい水が、乾ききった体に染み渡る。それはただの水ではなかった。高純度の魔力マナを含んだ、生命の水。ソフィアの血色の悪かった頬に、わずかに赤みが差す。枯渇していた魔力が、ほんの少し、回復した。


(……まだ、足りない。でも、動ける……!)


 ソフィアは再び泉の水を両手ですくうと、今度は、倒れている竜二の元へと、よろめきながら歩み寄った。


「竜二……! しっかりして……!」


 呪いを恐れ、触れることはできない。だが、彼女は竜二の口元ギリギリまで、その両手を差し出した。


「飲んで……。これは、聖なる水。あなたの魔力も、回復するはず……!」


 竜二は、霞む目で、必死の形相のソフィアを見上げた。さっきまで、死んだように玉座に座っていた女が、今、自分を助けようとしている。


「……へっ。面倒、かけたな……」


 竜二は、わずかに残った力を振り絞り、体を起こす。そして、ソフィアが差し出す「手」の器から、こぼれ落ちる聖水を、静かに口に含んだ。


 冷たい水が、竜二の喉を潤し、枯渇した魔力回路に染み込んでいく。ハズレ職の元ヤンキーと、呪われた吸血姫。 二人はこの絶望の底で、初めて「共生」の一歩を踏み出した。



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