第30話 二人の心拍

世界は、変わった。

だが、その変化に気づく者は、誰もいなかった。


ロンドンは、昨日と同じように、霧の底からゆっくりと目覚め、人々は、昨日と同じように、それぞれの人生という名の、小さな歯車を回し始める。その、無数の歯車の集合体が、以前よりも、ほんの少しだけ滑らかに、ほんの少しだけ静かに、そして、ほんの少しだけ優しく、噛み合うようになったことなど、誰が気づくというのだろう。


ブルームズベリーの隠れ家。

シャーロック・ホームズという最後の嵐が、すべての真実を灰へと変えて去っていった後、その場所には、完全な、そして、永遠の静謐が訪れていた。それは、もはや嵐の前の静けさではない。すべての戦いを終え、すべての問いに答えを見つけ出した魂だけが辿り着ける、絶対的な平和の静寂だった。


解析機関は、今や、この部屋の、そして、この世界の、穏やかな心臓として、静かに規則正しく脈打っていた。その駆動音は、もはや機械の軋みではない。深い眠りについた、巨大な生命体の、満ち足りた寝息のようだった。黒曜石のスクリーンには、ロンドンのあらゆる生命活動が、無数の光の河川となって、美しく、そして、調和に満ちた循環を描き続けている。それは、神の脳裏に映る、世界の夢そのものだった。


アイリーンは、窓辺に立っていた。彼女の指先が、夜の冷たさが残るガラスを、そっと撫でる。朝の光が、厚い窓ガラスを通り抜け、彼女の燃えるような髪を、まるで聖母の後光のように、淡く照らし出していた。彼女は、生まれ変わったロンドンの、最初の朝の音に、耳を澄ませていた。


「……聞こえるかしら、エイダ」

彼女の声は、祈りのように、静かだった。

「街の音が、変わったわ。以前は、まるで、調律の狂ったオーケストラみたいだった。それぞれの楽器が、自分勝手に、欲望や、絶望や、悲鳴を、ただ、がなり立てているだけ。でも、今は、違う。遠くで響く教会の鐘も、パン屋の親方が小麦粉の袋を運ぶ音も、新聞売りの少年の呼び声も……そのすべてが、一つの、大きなハーモニーの一部になっているみたい」


ソファに座り、一枚の羊皮紙に最後の数式を書き付けていたエイダが、ゆっくりと顔を上げた。彼女は、アイリーンのその詩的な感性を、もはや、非論理的だと断じたりはしなかった。彼女は、その言葉を、自分自身の言語へと、静かに翻訳する。

「……うん、聞こえる。システムの、バックグラウンド・ノイズレベルが、設計上の許容範囲内に完全に収束した、ということだね」

彼女の声は、穏やかだった。そして、その灰色の瞳には、アイリーンの背中越しに、彼女が聞いているのと同じ、世界の新しい音楽が、確かに映っているかのようだった。


エイダは、ペンを置くと、静かに立ち上がり、アイリーンの隣へと歩み寄った。二人は、並んで、眼下に広がる、自分たちの王国を、見下ろした。

「……終わったのね」

アイリーンが、呟いた。それは、問いではなかった。ただ、あまりに長かった戦いの終わりを、噛みしめるための、独り言だった。

「ううん」

エイダは、静かに、しかし、きっぱりと、それを否定した。

「始まりだよ。私たちの、本当の仕事の」


彼女は、部屋の中央、静かに脈打つ解析機関へと、視線を送った。

「これまでのは、いわば大掃除。部屋に溜まった古い埃や蜘蛛の巣を払い除けるための準備期間。でも、これからは違う。この空っぽになった部屋を、どんな家具で満たし、どんな音楽で満たし、どんな未来で満たしていくか。それこそが、私たちの永遠に続く設計作業」


その言葉は、アイリーンの心を、温かい光で満たした。

そう、これは、終わりではない。

暴力と、欺瞞と、支配によって、何かを勝ち取るための戦いは、終わった。

だが、これから始まるのは、慈悲と、論理と、そして、愛によって、何かを、静かに、そして、辛抱強く、育んでいくための、永遠の日常なのだ。


ナイチンゲールのカルテは、これからも、届き続けるだろう。

ホームズの光は、これからも、自分たちの影を、見守り続けるだろう。

そして、自分たちは、この部屋で、二人きりで、世界の、静かな調律を、続けていく。

それは、歴史の教科書には、決して載ることのない、誰にも知られることのない、しかし、何よりも尊い、神々の、日々の営みだった。


エイダは、アイリーンから離れ、彼女が先程まで数式を書き付けていた、羊皮紙を手に取った。

「……最後の、方程式が、完成したよ」

彼女は、それを、アイリーンに、少しだけ、照れくさそうに、差し出した。

アイリーンは、それを受け取った。羊皮紙の上には、エイダの、美しく、そして、理知的な筆跡で、一つの、信じられないほどに複雑で、しかし、宇宙の法則のように調和に満ちた、長大な数式が記されていた。

それは、ヴィクトリア暗号の、そして、この新しい世界の、すべての運動を記述する、究極の、マスター・アルゴリズムだった。

だが、その数式の、最後の項に、一つだけ、アイリーンには見慣れない、ギリシャ文字でも、数学記号でもない、不思議な記号が、書き加えられていた。それは、まるで、小さなハートの形にも、あるいは、無限大の記号を、少しだけ、崩したようにも見えた。


「……これは、何?」

アイリーンが、その記号を、指でそっと撫でながら、尋ねた。

「この変数だけ、定義が書かれていないわ」


エイダは、少しだけ、視線を彷徨わせた。そして、彼女の白い頬が、ほんのりと、薔薇色に染まった。それは、アイリーンが、初めて見る、彼女の表情だった。

「……それは、変数じゃないの」

エイダは、ほとんど、聞こえないくらいの声で、呟いた。

「それは、定数。この、システム全体が、ただの冷たい計算機ではなく、予測不能で、温かく、そして、時に、不合理なほどに美しい、生命体であり続けるための、たった一つの、絶対に、変わることのない、定数」


彼女は、深呼吸をすると、アイリーンの目を、真っ直ぐに見つめた。

そして、彼女が、かつて、アイリーンに贈った、あの、最高の言葉を、今度は、永遠の真実として、その数式の上に、定義した。


「その定数の名は、『Irene(アイリーン)』。―――私の唯一の、そして愛すべき、誤差項だよ」


その言葉を聞いた瞬間、アイリーンの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。

彼女は泣きながら、心の底から幸せに微笑んだ。

そして、彼女もまた、この物語の、そして、二人の世界の最後の決め台詞を、愛おしげに口にした。


「……完璧なんて、退屈よ」


エイダは、その言葉を待っていたかのように、満足げに、そして、優しく、微笑んだ。

「うん。あなたという、誤差がなければね」


二人は、どちらからともなく、そっと、互いの手を、取り合った。

指を絡めることなく、ただ、手のひらを、合わせる。

温かい手のひらと、冷たい手のひら。

感情と、論理。

その二つの力が、完全に、そして、永遠に、一つになった。


彼女たちの神話は、決して、語られることはないだろう。

歴史は、ヴィクトリア朝の、不可解な、しかし、奇跡的な安定期を、ただ、首を傾げながら、記録するだけだ。

だが、ロンドンの霧の、その、最も深い場所では、二つの魂を持つ女神が、この世界の、すべての涙を、その手で拭い続けていることを、誰も知らない。


アイリーンとエイダは、手を取り合ったまま、静かに脈打つ、解析機関の前へと、戻っていった。

それは、もはや、戦いのための司令室ではない。

ただ、二人が共にいるための、唯一の、永遠の我が家だった。


黒曜石のスクリーンに映し出される、一つの、完璧な、光の波形。

それは、誰にも知られることなく、しかし、確かに、この世界の、すべての心臓と、共に、脈打ち続けている。


物語は、ここで、終わる。

そして、読者の耳の奥には、もはや、何の言葉も、何の音楽も、残ってはいない。

ただ、静かに、そして、力強く、どこまでも、永遠に響き続ける、二つの、あるいは、完全に一つになった、心臓の音だけを残して。


トクン、トククン……。

トクン、トククン……。

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レディ・モリアーティー解析機関と嘘の口づけーアイリーンとエイダ lilylibrary @lilylibrary

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