第29話 必要な嘘

シャーロック・ホームズは、亡霊のように、ベイカー街221Bの自室に戻ってきた。


びしょ濡れのツイードのコートは、ロンドンの冷たい霧と、そして、彼が今しがた対峙してきた、あまりに巨大すぎる真実の重みを吸い込んで、鉛のように重かった。彼は、それを脱ぎ捨てると、まるで自分の抜け殻を眺めるかのように、しばらくの間、床に落ちた濡れた塊を、虚ろな目で見つめていた。


暖炉の前では、ジョン・H・ワトソンが、心配そうに眉をひそめ、肘掛け椅子から立ち上がった。


「ホームズ! こんな時間まで、いったいどこへ行っていたんだ! 君の顔は、まるで死人とダンスを踊ってきたかのようだぞ!」


ワトソンの実直な声が、ホームズを、現実の世界へと辛うじて引き戻した。


ホームズは、何も答えなかった。ただ、よろめくような足取りで、自分の定位置である安楽椅子へとその身を沈めると、深く、そして、ほとんど呻き声のような、長いため息をついた。

その灰色の瞳は、揺らめく暖炉の炎を見つめているようで、その実、もっと遠い、誰も見ることのできない、論理と倫理が衝突する、魂の戦場を見つめていた。


ワトソンは、それ以上、何も聞かなかった。

長年の友人である彼は、ホームズが、時として、言葉では決して説明できない、知性の深淵を覗き込み、その重圧に苛まれることがあることを、知っていた。

彼はただ、黙って、熱いブランデーを注いだグラスを、ホームズの震える手に、そっと握らせた。


ホームズは、それを、機械的な仕草で、一気に呷った。アルコールの熱が、凍てついた身体に、無理やり、かりそめの生命を注ぎ込んでいく。

だが、彼の頭脳は、燃え盛る暖炉とは対照的に、絶対零度の静寂と、これまで経験したことのないほどの、激しい混乱の嵐に苛まれていた。


(……檻、か)


アイリーン・アドラーの、あの、魂を抉るような反論が、彼の耳の奥で、何度も、何度も、反響していた。


『あなたの言う『間違う権利』とは、飢え、病み、そして、無意味に死んでいく権利のことなの!?』


その問いに、彼は、なんと答えた?

『そうだ』と。

彼は、そう断言した。人間の尊厳とは、たとえ破滅に至ろうとも、自らの意志で選択する自由にある、と。

それは、彼が、これまで生涯をかけて信じてきた、揺るぎない信念だった。法の支配。個人の自由。論理的正義。それらこそが、人間を、混沌から守る、唯一の防壁なのだと。


だが、本当に、そうだったのだろうか?

彼の脳裏に、彼がこれまで見てきた、ロンドンの、もう一つの顔が、次から次へと、幻灯のように浮かび上がっては、消えていった。

アヘンの煙が立ち込める薄汚い賭博場で、最後のなけなしの金をすられ、絶望の淵に沈む、父親の顔。

テムズの汚水が流れ込む地下室で、コレラに苦しみ、母親の腕の中で、なすすべもなく冷たくなっていく、幼い子供の、青ざめた唇。

工場の、危険な機械に腕を巻き込まれ、何の補償も与えられず、ただ、社会の歯車から、消耗品のように捨てられていく、若い労働者の、虚ろな目。


彼が守ろうとしてきた『自由』とは、彼らのような、声なき人々にとっては、ただ、強者に搾取され、運命に弄ばれ、そして、見捨てられる自由でしかなかったのではないか?

彼の信じる『法』とは、結局のところ、力ある者たちが、自分たちの秩序を守るために作り上げた、都合の良いルールに過ぎなかったのではないか?


そして、その、誰も救うことのできなかった絶望の淵に、彼女たちは、現れた。

レディ・モリアーティ。

二つの魂を持つ、新しい神。

彼女たちは、法を無視した。倫理を踏み越えた。嘘と、操作と、時には、非情な破壊さえも、躊躇わなかった。

だが、その結果として、彼女たちがもたらしたものは、何だった?

シティの市場は、かつてないほどの、健全な安定を取り戻した。

フリート街の新聞は、真実の力で、腐敗した権力を次々と暴き始めた。

そして、ホワイトチャペルの、あの、絶望の色しか知らなかったはずの路地には、今、確かに、子供たちの、笑い声が響いている。


ホームズは、ゆっくりと立ち上がると、黒板の前へと歩いた。

そこには、彼が描き出した、三位一体の、恐るべき、そして、美しい、敵の肖像画が、まるで告発状のように、残されている。

『感情』『論理』そして『慈悲』。

彼は、その三つの円環を、まるで憎むかのように、見つめた。

そして、彼は、理解した。

彼女たちの動機が、単なる権力欲や、悪意ではないことを。

彼女たちの行動の根底にあるのは、あの夜、エイダ・ラブレスが、静かに、しかし、揺るぎない確信をもって口にした、あの、恐るべき言葉だ。


『私たちは、神を気取っているのではない。ただ、あなた方の神が、あまりに無能であまりに役立ずだったから、その尻拭いをしているだけです』


それは、冒涜だった。だが、それは同時に、否定のしようのない、真実でもあった。

ホームズは、チョークを手に取ると、黒板の下に、震える手で、一つの、問いを書き記した。

『If law is not justice, and justice is not kindness, what should a detective do?』

(もし、法が正義ではなく、正義が慈悲ではないとしたら、探偵は何をすべきなのか?)

その問いに、答えは、なかった。


翌日からの数日間、ホームズは、まるで幽霊のようにロンドンの街を彷徨い歩いた。

彼は、レディ・モリアーティが介入したすべての現場を、もう一度、自分の足で、自分の目で、確かめるために。


彼は、ホワイトチャペルの、あの新しいポンプが設置された共同井戸を訪れた。

女たちが、以前よりもずっと明るい表情で、噂話をしながら、水を汲んでいる。その水は、命を奪う毒ではなく、命を育む、清らかな恵みとなっていた。


彼は、バーモンジーの、皮なめし工場地帯へと足を運んだ。新しい経営者の下、工場の周りには、奇妙な、しかし、生命力にあふれた雑草―――キバナスズシロ―――が、青々と茂り始めていた。子供たちの頬には、かつてのような、鉛色の淀みはなく、健康的な血の気が戻っていた。


彼は、シティの、とある商会を、物陰から観察した。そこは、レディ・モリアーティの介入によって、一度は倒産の危機に瀕した場所だった。だが、不公正な取引から手を引いたことで逆に、新しい誠実な顧客からの信頼を得て、以前よりもずっと健全な形で、再起を果たそうとしていた。


彼は、光を見た。

統計が示す『幸福』の、その生々しく温かい手触りを、確かに感じた。

だが同時に、彼は影からも目を逸らさなかった。

彼は、彼女たちの介入によって破産し、すべてを失ったあの悪徳大家の、荒れ果てた屋敷を訪れた。そこには、ただ空虚な風が吹き抜けるだけだった。

彼は、彼女たちの情報操作によって社会的地位を失った、政治家の打ちひしがれた家族の噂を、耳にした。

彼は、決して、忘れてはいなかった。

彼女たちの『善』が、常に、誰かの『悪』の上に、そして、誰かの犠牲の上に成り立っているという、その冷徹な事実を。


光と、影。

救済と、犠牲。

彼は、そのすべてを、彼の、あまりに公平すぎる論理の天秤の上に乗せ、そして計り続けた。

だが、その天秤の針は、決して、どちらか一方に、完全に傾くことはなかった。


数日後、疲れ果てた姿で、ベイカー街に戻ってきたホームズは、ワトソンに、すべてを、打ち明けた。

レディ・モリアーティの正体、その恐るべきシステム、そして自分自身の魂の葛藤を。

ワトソンはただ黙って、友人のそのあまりに重すぎる告白に、耳を傾けていた。


「……法に従えば、私は、彼女たちを、告発しなければならない」

ホームズは、暖炉の火を見つめながら、絞り出すように言った。

「だが、もし、私がそうすれば、どうなる? 彼女たちが築き上げた、この、脆く、しかし、確かに機能している秩序は、崩壊するだろう。市場は、再び、貪欲の渦に飲み込まれ、疫病は、再び、貧しい者たちから、その命を奪い始める。私の『正義』は、果たして、その、あまりに大きな代償に見合うだけの、価値があるのだろうか?」


ワトソンは、しばらくの間、沈黙していた。

そして、彼は、医師として、長年、生と死の境界線を見つめ続けてきた人間として、静かに、しかし、確信に満ちた声で、答えた。


「ホームズ。私が、壊疽に侵された兵士の足を、切断する時、私は、それが『善』だなどとは、決して思わない。それは恐ろしい暴力的な行為だ。だが、私は、そうしなければ、患者そのものが死んでしまうことを知っている。だから私は、祈りながら、ノコギリを引くのだ。そして、その選択の責任は、神でも患者でもなく執刀医である私自身が、生涯背負い続けなければならない」


彼は、ホームズの肩に、そっと手を置いた。


「君が、どちらを選ぼうとも、それは、間違いではないだろう。だが、その選択の重さは、君自身が、これからずっと、背負っていくことになる。君は、探偵である前に、一人の人間なのだから」


ワトソンの、あまりにシンプルであまりに人間的な言葉が、ホームズの心の中の、最後の霧を、静かに払い除けた。

そうだ。

これは、もはや、論理や法や正義の問題ではない。

これは、一人の人間としての、シャーロック・ホームズの選択の問題なのだ。


彼は、ゆっくりと、立ち上がった。

そして、彼のデスクの、秘密の引き出しから、一つの、分厚いファイルを取り出した。

それは、彼が、これまで数ヶ月にわたって、密かに収集し続けてきた、レディ・モリアーティに関する、すべての捜査記録だった。証拠物件、証言記録、そして、彼の、恐るべき推理のすべてが、そこに、克明に記されていた。

それは、二人の女神を、確実に絞首台へと送ることができる、唯一にして最強の武器だった。


彼は、そのファイルを、まるで自分の魂の一部でも抱えるかのように、大切に胸に抱いた。

そして、暖炉の前へと歩み寄った。


「……ワトソン君」

彼は、炎を見つめながら、静かに言った。

「この霧深きロンドンには、時には真実よりももっと価値のあるものが、あるのかもしれない」


彼は、続けた。

「それは、『必要な嘘』だ」


そして、彼は、そのファイルを、ためらうことなく、燃え盛る炎の中へと、投じた。

羊皮紙が、一瞬、炎を弾き、インクの文字が、苦悶するかのように、黒く縮れていく。

アイリーン・アドラーの名が、エイダ・ラブレスの名が、そして、レディ・モリアーティという、一つの時代の真実が、赤い炎に舐められ、やがて、灰色の、儚い灰となって、崩れ落ちていった。

それは、シャーロック・ホームズが、探偵としての自分自身を、殺した瞬間だったのかもしれない。

そして、一人の人間として、新しい時代の、複雑すぎる正義の、最初の共犯者として、生まれ変わった瞬間だったのかもしれない。


その、まさに、同じ時刻。

ブルームズベリーの隠れ家で、解析機関のモニタースクリーンを、固唾をのんで見守っていた二人の女神は、一つの奇妙な、しかし決定的なデータの消滅を目撃していた。

スコットランドヤードの、極秘捜査ファイルの中から、コードネーム『LADY MORIARTY』と名付けられたフォルダが、完全に、そして永遠に消去されたのだ。

それは、ホームズが、物理的なファイルを燃やすと同時に、彼が密かにアクセスしていた警察のシステムからも、自らの手で、その痕跡を完全に消し去ったことを意味していた。


アイリーンと、エイダは、顔を見合わせた。

そして、どちらからともなく、深く安堵の息を吐き出した。

それは、勝利宣言のない静かな、しかし絶対的な勝利だった。


「……彼は、共犯者になってくれたのね」

アイリーンが、震える声で、囁いた。

「私たちの、この巨大で、そしてあまりに優しい『必要な嘘』の」

「ううん」

エイダは、静かに首を振った。その瞳は、窓の外、遠くベイカー街の方角を見つめていた。

「彼は、共犯者ではないと思う。ホームズはきっと監査人であり続ける。でも、彼は、私たちのシステムにとって、最も重要で最も信頼できる外部パラメータ(変数)となったの。シャーロック・ホームズという、絶対的な法と正義の『重力』が、このロンドンのどこかに存在し続ける限り、私たちの描く軌道は、決して独裁という名の暗い恒星に墜ちていくことは、ないはず」


二人は、窓辺に立ち、静かに明け始めた、ロンドンの空を、見つめた。

彼女たちの神話は、今、完成した。

誰にも知られることなく、誰にも語られることなく、しかし、この都市の隅々にある、涙が流れるすべての場所に、その慈悲と秩序を永遠にもたらし続ける、影の神話として。

そして、その神話が、決して堕落することのないよう見守り続ける、一人の孤独な光の番人がいることを、彼女たちだけは、知っていた。

世界は、その危うく美しい均衡の上で、新しい一日を始めようとしていた。

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