第3話 解析機関と孤独
ロンドンの心臓部から幾分離れたブルームズベリーの一角。
そこは、社交界の喧騒も、シティの熱狂も、まるで別世界の出来事であるかのように、学問的な静寂に支配されていた。その地区の、蔦の絡まるレンガ造りの建物の最上階。その部屋こそが、レディ・モリアーティの、そして世界の、もう一つの心臓部だった。
部屋には、窓から差し込む月光と、数本の蝋燭の灯りしかなかった。その光が照らし出しているのは、壁一面の本棚でも、豪華な調度品でもない。部屋の中央に鎮座する、巨大で、複雑怪奇な機械仕掛けの怪物。無数の真鍮製の歯車が噛み合い、磨き上げられた鋼のレバーが林立し、ガラス管の中を水銀が静かに脈打っている。
それは、異才チャールズ・バベッジの夢の残骸―――解析機関(アナリティカル・エンジン)。だが、この機械は、彼の設計図を超え、ここにいる一人の天才少女の手によって独自の進化を遂げた、蒸気の力で思考する
その機械の傍らに、白いブラウスに黒いスカートという簡素な出で立ちの女性が一人、座っていた。エイダ・ラブレス。彼女の細い指が、鍵盤に似た装置の上を滑る。その目は、目の前の機械ではなく、もっと遠く、世界の構造そのものを見通しているかのようだった。部屋の空気は、冷たい機械油と、古い紙の匂い、そして微かなオゾンの香りが混じり合っていた。それは、論理と孤独の匂いだった。
その静寂を破って、部屋の隅に置かれた電信機が、不意に短いリズムを刻み始めた。カタ、カタタ、カ、カタ。それは、ありふれたモールス信号ではない。
拍動の不規則な揺らぎを符号化した、世界で二人しか理解できない暗号。
アイリーンからの、任務完了の合図だった。
エイダは表情一つ変えず、その音に耳を澄ませる。彼女の頭脳は、その不規則なリズムを瞬時に数列へと変換し、意味を再構築していく。
『―――海の蛇はアイルランドの足元に眠る。フランスへの嫉妬が、その枕』
完璧な情報だった。
曖昧な比喩に偽装されているが、その中には海底ケーブルの正確なルートと、その敷設の政治的動機が、数学的な精度で織り込まれていた。
エイダは立ち上がり、巨大な機械の側面に設置された穿孔機へと向かう。彼女は、一連の厚紙のカードを取り出すと、慣れた手つきで、その情報を一連の穴のパターンへと変換していく。カードに穴が開く、乾いた打刻音が、リズミカルに響いた。
「変数G、チャールズ・グレイヴィル卿。入力パラメータは『自尊心』と『性的虚栄心』。アイリーンが与えた関数は『同情』と『誘惑』……出力結果、期待値通り」
独り言のように呟きながら、彼女は穿孔されたカードの束を、解析機関の投入口に差し込んだ。そして、主たるレバーを、静かに、しかし確信に満ちた動きで引き下ろす。
ガシャン、という重々しい音と共に、機械が目覚めた。歯車が軋み、回転し、噛み合い、思考を始める。それはまるで、眠っていた真鍮の巨人が、ゆっくりと身じろぎしたかのようだった。
部屋の蝋燭の炎が、機械の生み出す気流で微かに揺らめく。
エイダは、その機械の奏でる音を、まるで交響曲を聴くように、目を閉じて味わっていた。世界が彼女の意のままに再計算されていく音。混沌とした現実が、美しい数式へと収斂していく、至福の瞬間だった。
計算が続く中、エイダは再び、あの特殊な電信機の前に座った。彼女の指が、返信の符号を打ち始める。
『情報受領。誤差なし。君の関数は常に効率的』
その通信は、無機質で、簡潔だった。事実の報告。それ以上でも、それ以下でもない。
すぐに、アイリーンからの返信が届く。そのリズムは、エイダのそれとは対照的に、どこか楽しげで、軽やかに弾んでいた。
『あら、退屈な返事。わたくしのドレスがどれほど美しかったかとか、あの男の顔がどれほど滑稽だったかとか、聞きたいことはないのかしら?』
『そのデータは不要。ドレスの色も、男の表情も、結果には影響しない』
エイダは、そう打ちながら、思考の片隅にノイズが走るのを感じていた。ドレスの色。彼女の脳が、勝手に深紅のシルクを幻視する。男の表情。彼の愚かな欲望を想像し、微かな軽蔑が胸をよぎる。それらは、計算には不要な、余分な情報。処理すべきではない、感情という名のバグ。
アイリーンからの返信は、まるでその思考を読み取ったかのようだった。
『そうかしら? わたくしには、その“不要なデータ”こそが、世界を動かす本当の動力に思えるけれど。あなたは、数式で人を愛せる?』
その問いに、エイダの指が止まった。
愛。
彼女の辞書において、それは最も定義の難しい単語だった。協力関係における相互利益の最大化? 遺伝子保存のための生物学的衝動? どれもしっくりこない。それは、彼女の完璧な論理体系に、どうしても収まりきらない、厄介な特異点(シンギュラリティ)だった。
しばらくの沈黙の後、解析機関が、カシャン、という高い音を立てて計算を終え、一枚の穿孔カードを吐き出した。エイダはそれを取り上げ、穴のパターンを読み解く。そこには、新しい海底ケーブルの完成がもたらすであろう、未来の株価変動と、権力構造のシフトが、冷徹な数字の羅列として記されていた。彼女は、世界の未来を、手のひらの上で弄んでいた。
だが、その全能感をもってしても、アイリーンの問いに答えることはできなかった。
彼女は、視線を機械に戻す。この美しく、完璧で、裏切ることのない論理の塊。彼女が愛しているのは、この秩序だった。世界のすべてを数式で理解すること。それが彼女の喜びであり、存在意義だった。
しかし、その完璧な世界には、アイリーンがいない。
アイリーンの不合理さ、予測不能な感情の揺らぎ、嘘と誘惑に満ちた言葉。それらすべてが、エイダの理論を乱す。だが、不思議なことに、その乱れこそが、彼女の世界に唯一の色彩を与えていることも、彼女は知っていた。
エイダは、電信機に最後の返信を打った。
『……理論を愛している。そして、あなたで、その理論が崩れる』
それは、彼女なりの、最大限の告白だった。
返信は、もう来なかった。だが、それでよかった。言葉は、時にあまりに不正確だ。
エイダは、吐き出されたカードを手に、部屋の窓辺に立った。窓ガラスに映る自分の顔は、ひどく血の気がなく、まるで幽霊のようだった。その向こうには、霧に包まれたロンドンが、巨大な生き物のように息づいている。あの霧の中で、アイリーンは今、どんな仮面を被って、誰を欺いているのだろう。
彼女は、冷たいガラスにそっと額をつけた。解析機関は、再び静寂を取り戻し、巨大な骸のように沈黙している。この部屋は、彼女の王国であり、同時に、逃れることのできない牢獄でもあった。
世界を再設計するアルゴリズムは、もうすぐ完成する。だが、その数式に、たった一つだけ、どうしても組み込めない変数がある。
―――アイリーン・アドラー。
彼女は、私の唯一の、美しい誤差項。
そう思った瞬間、エイダの胸に、これまで感じたことのない微かな痛みが走った。
それは、論理では説明のできない、しかし確かな存在感を持つ、執着という名の感情だった。
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