第4話 二つの世界の交差
二人が出会った日。
英国博物館のグレート・コートは、曇り空から注ぐ拡散光を巨大なガラス天井で受け止め、大理石の床に影のない、均一な明るさを落としていた。
ここは、世界のあらゆる時代の知識と芸術が、分類され、陳列され、沈黙のうちにその価値を主張する、知性の霊廟だ。時の流れさえ、ここではその歩みを緩め、壁にかけられたロゼッタストーンの前に立つ人々は、古代の叡智の前に等しく敬虔な訪問者となる。
世界を数と記号で認識する、エイダ・ラブレスにとって、この場所は数少ない安らぎの地だった。
世界の混沌が、ここでは美しい秩序へと変換されている。エルギン・マーブルの彫像の完璧な比率、アッシリアのレリーフに刻まれた王の威厳、そのすべてが、人間の営みが最終的には何らかのパターンと法則に収斂することの証明のように思えた。
彼女は今、ギリシャ彫刻のギャラリーに佇み、ある女神像の衣のドレープ(襞)が描く数学的な曲線に、静かな喜びを見出していた。
その、整然とした彼女の世界に、不意に、まったく異質な音が混じり込んだ。
「パロス産の大理石。光を内側から放つような、独特の透明感があるでしょう? でも、わたくしには、この女神様、少しだけ寒そうに見えるわ」
その声は、この静謐な空間にはあまりに似つかわしくない、蜜を含んだビロードのような響きを持っていた。
エイダがゆっくりと振り返ると、そこにいたのは、一人の女性だった。濃紺のベルベットのドレスは、彼女の白い肌を陶器のように際立たせ、同色の羽根飾りがついた小さな帽子が、その燃えるような赤毛を上品に引き締めている。
その顔立ちは、まるでここに並ぶどの彫像よりも完璧に計算された芸術品のようだった。アイリーン・アドラー。エイダは、社交界の噂でその名を知っていた。男たちを虜にし、破滅させる歌姫、と。
エイダは、警戒するように、わずかに眉をひそめた。
「……ただの石だよ。温度は感じない」
「そうかしら?」
アイリーンは、楽しそうに目を細めた。
「わたくしたちが見つめることで、物語が生まれる。物語が生まれれば、感情も宿るわ。この女神様は、きっと完璧すぎたのね。そのせいで、誰にも愛されず、神殿の奥でずっと独りでいた。その孤独が、この石を冷たくしているのよ」
エイ-ダは、その非論理的な言葉に、どう返すべきか測りかねた。孤独。それは、自分に最も近しい言葉だったが、それを石像に投影する感性は、彼女の理解を超えていた。
「詩的な見方だね。でも事実じゃない」
「あら、事実はいつも退屈よ」
アイリーンはそう言うと、エイダの隣に並び、女神像を見上げた。
「それよりも、あなたの論文、拝見したわ。『解析機関によるベルヌーイ数の算出について』。……まるで、機械に魂を吹き込むための、美しい呪文のようだった」
その言葉に、エイダの背筋を微かな電流が走った。彼女の論文を読む人間はいる。だが、それを「美しい呪文」と表現した者はいなかった。社交界の歌姫が、なぜ自分の数学論文を? 目的は何?
「……何が望みなの?」
エイダの声は、平坦で、温度がなかった。警戒心を隠そうともしない、無機質な問い。
アイリーンは、エイダのその率直さが気に入ったように、くすりと笑った。
「そうね……。あなたのその素晴らしい知性が、少しだけ、勿体ない使われ方をしているように思えて、お節介を焼きたくなったのかしら」
「勿体ない?」
「ええ」
アイリーンは、エイダの目を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、すべてを見透かすような、深い森の色をしていた。
「あなたは、その機械で世界を計算しようとしている。素晴らしいわ。でも、あなたの数式には、肝心な変数が欠けている」
「……何のこと?」
「感情よ」
アイリーンは、その言葉を、まるで秘密を打ち明けるように、吐息と共に囁いた。
「嫉妬、虚栄、愛、憎しみ。世界を本当に動かしているのは、そんな非合理で、測定不能なエネルギー。あなたの解析機関は、コンソル公債の価格変動は予測できても、その引き金を引いた銀行家の、愛人への嫉妬までは計算できないでしょう?」
エイダは黙り込んだ。
それは、彼女自身がシステムの限界として認識している、まさにその核心だった。感情はノイズだ。誤差項だ。排除し、切り捨てるべきもの。だが、この女は、それこそが世界の動力だと言う。
二人の間に、張り詰めた沈黙が落ちた。それは、二つの異なる宇宙が衝突する前の、絶対的な静寂だった。先に口を開いたのは、アイリーンだった。
「あなたの理論は完璧よ、エイダ・ラブレス。でも、それは真空の中でしか成立しない。現実という大気は、感情という名の湿気と嵐に満ちているわ。わたくしは、その大気の流れを読むことができる。風を読み、嵐を呼び、人の心を意のままに動かすことができるの」
彼女は一歩、エイダに近づいた。夜来香の甘い香りが、エイダの理性を微かに揺さぶる。
「考えてみて。あなたの“論理”という完璧なエンジンと、わたくしの“感情”を操るための、完璧な操縦術。その二つが組み合わさったら、何が起きると思う?」
「ただの空想だよ」
「いいえ」
アイリーンの声は、確信に満ちていた。
「これは、世界の再設計よ」
彼女は、小さなハンドバッグから、一枚の株券を取り出して見せた。それは、数日前にシティを混乱させた暴落の渦中で、唯一、不可解な高騰を見せた、小さな織物会社の株だった。
「この会社の株がなぜ上がったか、あなたの機械は説明できる?」
「……できない。データが不足している」
「そうでしょうね」
アイリーンは、勝利を確信したように微笑んだ。
「では、答えを教えてあげる。この会社の社長の娘が、ハノーヴァー王家の遠縁の公爵と秘密の婚約をしたからよ。その情報が、正式発表の三日前に、ごく一部の貴族の間だけで囁かれた。わたくしが、そう仕向けたの」
エイダの灰色の瞳が、初めて大きく見開かれた。
それは、犯罪だ。だが、それ以上に、彼女の心を捉えたのは、その手口の、悪魔的なまでの美しさだった。
情報の非対称性を利用し、感情(ゴシップへの興味)を触媒として、市場というシステムに介入する。それは、エイダがこれまで考えてもみなかった、全く新しいアルゴリズムだった。
「あなたは、世界を数式で理解する。わたくしは、世界を物語で支配する」
アイリーンは、株券をエイダの手にそっと握らせた。その指先の温もりが、エイダの冷たい肌に、奇妙なほど鮮明な感覚を残す。
「これからは、あなたの知性で世界を動かすのよ。霧とガス灯に隠された、このロンドンの本当の支配者になるの。わたくしと、あなたで」
それは、誘惑だった。論理の化身であるエイダが、生涯で初めて経験する、知性そのものへの抗いがたい誘惑。目の前の女は、彼女の完璧な世界を破壊しにきた侵略者であり、同時に、この世界を完成させるために現れた最後のピースのようにも思えた。
「……なぜ、私なの?」
かろうじて、エイダはそれだけを口にした。
アイリーンは、心からの笑みを浮かべた。それは、社交界で見せる仮面ではない、共犯者を見つけた少女のような、無垢で、それゆえに残酷な笑顔だった。
「だって、あなた以外の誰が、わたくしの言葉を理解できるというの?」
そう言い残し、アイリーンは優雅に踵を返した。
濃紺のドレスの裾が、大理石の床を滑る音が、まるで蛇の吐息のように響く。
残されたエイダは、握らされた株券と去っていくアイリーンの後ろ姿を、呆然と見つめることしかできなかった。
手のひらに残る、かすかな温もりと香り。
そして、頭の中で鳴り響く、冒涜的で、しかし甘美な提案。
彼女の孤独な王国に、初めて扉が作られた。その扉の向こうには、混沌と、官能と、そして世界のすべてを覆すほどの、巨大な可能性が広がっていた。
エイダ・ラブレスは、その日初めて、自分の解析機関では計算できない、巨大な未知数の存在を全身で感じていた。
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