第2話 社交界の歌姫

 メイフェア地区に佇むランカスター公爵の邸宅は、今宵、ロンドンという霧の海に浮かぶ一隻の豪華客船だった。

 窓から溢れるシャンデリアの光は、まるで船室の灯りのように濃霧を淡く照らし、その中では英国を動かす権力者たちが、かりそめの安らぎという名の美酒に酔いしれている。

 空気は、蜜蝋の甘い香り、貴婦人たちの纏うフランス製の香水、そして男たちの葉巻の煙が混じり合い、濃厚で、人を緩やかに窒息させるような官能的な澱となっていた。


 その夜の主役は、音楽だった。そして、その音楽を司る女神、アイリーン・アドラーその人だった。


 拍手が嵐のように巻き起こる中、グランドピアノの傍らに立つ彼女は、まるで光そのものを編み上げて作ったかのような、深紅のシルクのドレスを身に纏っていた。

 寄せられた賞賛の波を、彼女は穏やかな微笑みという防波堤で受け流す。その微笑みは、すべての男に「あなただけに向けられたものだ」と錯覚させる、計算され尽くした芸術品だった。


「素晴らしい、アドラー嬢!君の歌声は、我々の疲弊した魂を浄化してくれる」

 初老の銀行家が、赤らんだ顔でそう言った。アイリーンは優雅にカーテシーを返し、その瞳を扇情的に細める。

「お褒めに預かり光栄ですわ、ハミルトン卿。でも、わたくしの歌が魂を浄化するなんて、そんな大それたものではなくてよ。ただ、ほんの少しだけ、皆様がお忘れになっている心の鍵穴に、ぴったりの鍵を差し込んでみただけのこと」


 彼女の言葉は、それ自体が音楽だった。甘く、挑発的で、聞いた者の心の最も柔らかな部分を的確に撫でていく。男たちは、その比喩の意味を理解しようとするよりも先に、その声の響きに酔わされた。彼らは知らない。彼女の言う「鍵」とは、彼らの警戒心を解き、無防備になった魂から秘密という名の宝石を盗み出すための、万能の合鍵(マスターキー)であることを。


 今宵の獲物―――内務省の次官、チャールズ・グレイヴィル卿は、部屋の隅でブランデーグラスを傾けながら、アイリーンを値踏みするような、それでいて隠しきれない欲望の滲む目で見つめていた。彼は、大陸との通信網を強化するための海底ケーブル敷設プロジェクトの責任者であり、その極秘の経路図を懐に忍ばせているはずだった。エイダが設計する「ヴィクトリア暗号」がロンドンの神経網を完全に掌握するためには、その新しい神経線維の情報が不可欠だった。


 アイリーンは、周囲の賞賛者たちを巧みにかわすと、まるで美しい蝶が花の蜜に誘われるように、自然にグレイヴィル卿の元へと歩み寄った。彼女が近づくにつれて、彼女の纏う夜来香(イエライシャン)の香りが、ブランデーの芳醇な香りに混じり合う。


「ごきげんよう、グレイヴィル卿。今宵の演目は、あまりお気に召しませんでしたか? 難しいお顔をなさって」


 アイリーンの声は、吐息そのものだった。グレイヴィル卿は、慌てて背筋を伸ばし、作り笑いを浮かべる。


「いや、とんでもない。あなたの歌声は、まさに天使のそれだ。ただ……少々、俗世の悩み事が頭を離れなくてね」

「……俗世の悩み事。きっと、この国を支える大きな石を、その肩で背負っていらっしゃるのでしょうね。ジブラルタル海峡で天球を支えるアトラスのように」


 アイリーンは、彼の自尊心を優しくくすぐった。彼女は知っている。権力を持つ男という生き物は、その重荷を理解してくれる女性に、赤子のように無防備になることを。


「……理解してくれるかね」

「ええ。わたくしには、音楽のことしか分かりませんけれど」


 そう言って、アイリーンは蠱惑的に微笑んだ。


「でも、国を動かすことも、人の心を震わせる旋律を奏でることも、きっとどこか似ているのではないでしょうか? たった一つの音、たった一つの決断が、すべてを調和させもすれば、不協和音を生みもする。そのプレッシャーは、きっと選ばれた方にしか分からないものでしょう?」


 彼女の言葉は、グレイヴィル卿の心の壁を、上質なワインがグラスに染み込むように、静かに、しかし確実に溶かしていった。


 しばらく当たり障りのない会話が続いた後、アイリーンはふと、テラスへ続く窓の外に目をやった。霧が、ガラスの向こうで渦を巻いている。


「少し、熱気にあてられてしまいましたわ。よろしければ、少しだけ、外の空気に付き合っていただけませんこと?」


 その誘いを断れる男など、この場にはいなかった。



 テラスは、邸宅の喧騒が嘘のように静まり返っていた。冷たく湿った空気が、火照った肌に心地よい。遠くで、霧笛が汽船の到着を告げていた。それはまるで、この世の果てから響いてくるような、孤独な音だった。


「……美しい霧ね」

 アイリーンは、大理石の手すりに肘をつきながら、うっとりと呟いた。

「美しい?厄介なだけだろう。すべてを覆い隠し、道を惑わせる」

 グレイヴィル卿が現実的な言葉を返すと、アイリーンはくすりと笑った。

「だからこそ、美しいのよ。隠されているからこそ、その奥にあるものを知りたくなる。秘密は、女性を魅力的に見せる最高のヴェールだとは思いませんこと?」


 彼女はゆっくりと振り返り、その翡翠色の瞳で、真っ直ぐにグレイヴィル卿の目を見つめた。ガス灯の頼りない光が、彼女の瞳の中でゆらめいている。それは、覗き込んだ者を永遠に引きずり込む、深い森の泉のようだった。


「あなたのようなお方も、きっとたくさんの秘密をお持ちなのでしょうね。世界を動かすような、大きくて、重たい秘密を」

「……仕事柄、否定はしない。だが、それは墓場まで持っていくべきものだ」

「まあ、なんて可哀想。そんなに重たいものを、たったお一人で。まるで、世界そのものを背負って、独りで綱渡りをしているみたい」


 アイリーンの声は、同情と、ほんの少しの軽蔑が混じった、絶妙な響きを持っていた。


「その秘密の重さで、いつかバランスを崩してしまわないかしら? 誰にも言えない言葉は、時に毒となって、心を蝕むものですわ」


 グレイヴィル卿は、ゴクリと喉を鳴らした。目の前の女は、ただ美しいだけの歌姫ではなかった。彼女は、人の魂の最も脆い部分を見抜く、危険な魔女だった。だが、その危険こそが、退屈な日常を送る彼にとって、抗いがたい魅力に映った。


「君には……関係のないことだ」

 彼は、最後の理性を振り絞るように言った。

「ええ、もちろん。わたくしはただの歌い手。けれど、わたくしは知っているの。本当の強さとは、すべてを独りで抱え込むことではなくて、その重荷を預けられる相手を見つけることだって」

 彼女は一歩近づき、そっと彼の上着の襟に触れた。その指先は、ひんやりとして滑らかだった。「ほんの少しだけ、その重荷を降ろしてみる勇気。それさえあれば、人はもっと自由になれるのに」


 彼女の囁きは、悪魔の誘惑だった。そして、グレイヴィル卿は、その誘惑に負けることを、心のどこかで望んでいた。彼は、アイリーンの瞳に見入られながら、まるで夢遊病者のように、ぽつりと呟いた。


「……新しいケーブルは、アイルランドの南、誰も予想しないルートを通る。軍事的な意味合いが強い。フランスの牽制のためにな……」


 その言葉が彼の口から滑り落ちた瞬間、アイリーンの唇の端に、誰にも気づかれないほどの、しかし完璧な勝利を意味する微笑が浮かんだ。彼女は、彼の襟からそっと手を離し、もう一度、霧深いロンドンの夜景に目を向けた。


「そう……。完璧な計画なんて、退屈だと思っていましたけれど、あなたのその秘密は、まるでショパンのノクターンのように、複雑で、憂いを帯びていて……少しだけ、興味が湧いてしまいましたわ」


 彼女はそう言うと、名残惜しげな視線を一つ彼に投げかけ、優雅に身を翻してテラスを後にした。残されたグレイヴィル卿は、自分が何を口走ったのかを理解し、背筋に冷たい汗が流れるのを感じたが、もう遅かった。


 公爵邸を辞したアイリーンを乗せた辻馬車は、霧の中を滑るように進んでいく。華やかな社交界の喧騒は、もう遠い。馬車の窓枠に頬杖をつきながら、彼女は目を閉じた。男たちを操るゲームのスリル。秘密を暴いた瞬間の、冷たい達成感。だが、その感情の波が引いた後には、いつも、静かで、底の知れない孤独が残る。


 彼女の外面は、完璧に磨き上げられた宝石だった。だがその内面は、誰にも触れさせることのない、繊細で、傷つきやすい硝子細工だった。この孤独を本当に理解してくれるのは、世界でたった一人だけ。


(……エイダ、条件は満たしたわよ)


 心の中で、彼女は呼びかける。その瞬間、彼女の胸の奥で、もう一つの心臓が、まるで共鳴するかのように、静かに鼓動を打った気がした。ロンドンの霧は、彼女の本当の顔を隠す、優しい仮面だった。そしてその仮面の下で、彼女は世界を操るための、次の一手を静かに思考していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る