第7話:精神科へ(前編)



ドラマの主演が決まってから、一週間が経った。


佐原悠の生活は、激変していた。


事務所からの連絡が増え、スケジュールは埋まっていった。


打ち合わせ、衣装合わせ、リハーサル。


やることが山積みだった。


でも、佐原は。


全てを、こなしていた。


完璧に。


-----


朝、目を覚ますと。


佐原は、自分がどこにいるのか分からなかった。


「ここは……?」


見回すと、自分の部屋だった。


「ああ、家か」


安心して、起き上がる。


でも、昨夜のことを思い出せない。


何時に帰ってきたのか。


何をしていたのか。


全て、曖昧だった。


「また……」


最近、こういうことが増えている。


数時間、時には半日の記憶がない。


気づいたら、違う場所にいる。


気づいたら、誰かと話している。


まるで、自分の人生を映画のように見ているような感覚。


洗面所に向かい、顔を洗う。


鏡を見ると。


自分の顔が、少し変わった気がした。


以前より、大人びている。


でも、同時に、疲れている。


「やつれたな……」


呟いて、佐原は朝の準備を始めた。


でも、その動作が。


時々、止まる。


まるで、誰かと相談しているような。


そして、また動き出す。


「今日は……何の予定だっけ」


スマートフォンを確認する。


午前中は、事務所での打ち合わせ。


午後は、雑誌の撮影。


夕方は、レッスン。


「忙しいな……」


でも、不思議と疲れは感じなかった。


むしろ、体は軽い。


まるで、誰かが支えてくれているような。


-----


事務所での打ち合わせ。


佐原は、プロデューサーや監督と顔を合わせていた。


「佐原君、ドラマの台本、読んだ?」


プロデューサーが尋ねた。


「はい。全て読みました」


佐原は答えた。


でも、その声が。


いつもより落ち着いていた。


大人びた、プロフェッショナルな声。


「どうだった?役について、何か意見はある?」


「そうですね……」


佐原は少し考えた。


でも、次の瞬間。


言葉が勝手に出てきた。


「この役は、表面的には明るく見えますが、内面に深い葛藤を抱えています。その二面性を、どう表現するかが鍵だと思います」


プロデューサーは驚いた表情を見せた。


「おお、よく理解してるね」


「それに、第三話での感情の爆発シーン。ここは、抑えた演技の方が効果的だと思います」


佐原は続けた。


でも、自分が何を言っているのか。


よく分かっていなかった。


言葉が、勝手に出てくる。


まるで、誰かが自分の口を使って話しているような。


「素晴らしい。君、本当に新人なのか?」


監督が感心したように言った。


「こんなに深く役を理解している新人、初めて見たよ」


「ありがとうございます」


佐原は笑顔で答えた。


でも、心の中では混乱していた。


(今の、俺が言ったのか……?)


打ち合わせは順調に進んだ。


佐原は、次々と的確な意見を述べた。


演技についても、演出についても。


まるで、何年も俳優をやっているかのように。


「佐原君、本当に頼もしいよ」


プロデューサーは満足そうだった。


「このドラマ、絶対に成功するよ」


「頑張ります」


佐原は深く頭を下げた。


打ち合わせが終わり、佐原は会議室を出た。


廊下で、一人になった瞬間。


佐原は壁に寄りかかった。


「はあ……」


深く息を吐く。


(さっきの、本当に俺だったのか?)


自分が話した記憶が、ほとんどない。


気づいたら、打ち合わせが終わっていた。


そして、みんなが自分を褒めていた。


「おかしい……本当におかしい」


小さく呟いた。


-----


午後、雑誌の撮影現場。


佐原は、カメラの前に立っていた。


「じゃあ、笑顔で」


カメラマンが指示を出す。


佐原は笑顔を作った。


でも、その笑顔が。


次の瞬間、変わった。


もっと爽やかで、完璧な笑顔。


まるで、モデルのような。


「いいね!その表情、キープして」


カメラマンは連続でシャッターを切った。


「次は、真面目な表情で」


佐原の表情が変わる。


真剣で、知的な表情。


「素晴らしい!君、表情の切り替えが上手いね」


撮影は順調に進んだ。


様々なポーズ、様々な表情。


佐原は、全てを完璧にこなした。


でも、佐原本人は。


ぼんやりとしていた。


まるで、他人事のように。


自分の体が、勝手に動いている。


そんな感覚。


「はい、オッケー!完璧だよ」


撮影が終わった。


スタッフたちが拍手した。


「佐原君、素晴らしかったよ」


「ありがとうございます」


佐原は笑顔で答えた。


でも、撮影の記憶が。


ほとんどなかった。


気づいたら、終わっていた。


(また……)


佐原は不安になった。


記憶が飛ぶ頻度が、増えている。


このままじゃ、本当にまずい。


-----


夕方、レッスンスタジオ。


佐原は、ダンスの練習をしていた。


でも、途中で。


急に、動きが止まった。


「あれ……?」


次のステップが、思い出せない。


いつもできていたのに。


「佐原君、大丈夫?」


講師が心配そうに尋ねてきた。


「すみません、ちょっと……」


佐原は混乱していた。


頭の中が、真っ白になった。


何も思い出せない。


でも、次の瞬間。


急に、体が動き出した。


完璧なダンス。


まるで、何もなかったかのように。


「……」


講師は不思議そうな顔をしていた。


「佐原君、さっきは止まったのに」


「すみません。ちょっと、頭が真っ白になって」


「無理してない?」


「大丈夫です」


佐原は強がった。


でも、本当は大丈夫じゃなかった。


明らかに、おかしい。


自分の体なのに、コントロールできない。


記憶も、曖昧。


これは、普通じゃない。


レッスンが終わり、佐原は一人で着替えていた。


その時、マネージャーが入ってきた。


「佐原君、ちょっといい?」


「はい」


「最近、体調大丈夫?」


マネージャーは心配そうだった。


「大丈夫ですけど……なんでですか?」


「いや、周りから、ちょっと心配の声が出てて」


「心配?」


「うん。時々、ぼーっとしてるとか、話し方が変わるとか」


マネージャーは言いにくそうに言った。


佐原の心臓が跳ねた。


(やっぱり、バレてる……)


「疲れが溜まってるんじゃないかって。無理してないか?」


「いえ、大丈夫です」


佐原は笑顔を作った。


でも、マネージャーは納得していない様子だった。


「一度、病院行ってみたら?」


「病院……?」


「健康診断でもいいし。仕事が本格的に始まる前に、体調整えといた方がいいよ」


マネージャーは優しく言った。


佐原は迷った。


病院。


行くべきなのかもしれない。


でも、怖い。


診断されることが。


「考えておきます」


「うん。無理だけはしないでね」


マネージャーは佐原の肩を叩いて、出て行った。


佐原は、一人残された。


「病院……」


呟いて、佐原はベンチに座り込んだ。


もう、逃げられないのかもしれない。


-----


その夜、佐原は部屋で一人座っていた。


スマートフォンを手に、病院を検索している。


「心療内科……」


画面に、いくつかの病院が表示される。


でも、どこに行けばいいのか分からない。


そもそも、何と言えばいいのか。


「記憶が飛びます」


「体が勝手に動きます」


「頭の中で、複数の声が聞こえます」


そんなこと、言ったら。


どんな診断をされるのだろう。


「怖い……」


でも、このままじゃダメだ。


佐原は意を決して、一つの病院を選んだ。


そして、予約の電話をかけた。


「はい、〇〇クリニックです」


受付の声が聞こえる。


「あの……予約をしたいんですけど」


「はい。初診ですか?」


「はい」


「では、お名前とご症状を教えていただけますか」


「佐原悠です。症状は……」


佐原は言葉に詰まった。


何と言えばいいのか。


「記憶が……飛ぶことがあって」


「記憶障害ですね。他に、何か症状はありますか?」


「体が、勝手に動くというか……自分でコントロールできないことがあります」


受付の人は、少し間を置いた。


「分かりました。では、明後日の午前中、いかがでしょうか」


「お願いします」


予約を終えて、佐原は電話を切った。


「行くんだ……病院に」


呟いて、佐原は天井を見上げた。


不安だった。


でも、同時に。


少しだけ、安心もしていた。


もしかしたら、何か分かるかもしれない。


治療法があるかもしれない。


「大丈夫……きっと、大丈夫」


自分に言い聞かせた。


-----


その夜、佐原は眠れなかった。


ベッドに横になっても、目が冴えている。


明後日、病院に行く。


そこで、何を言われるのだろう。


どんな診断をされるのだろう。


不安が、次々と湧いてくる。


「眠れない……」


起き上がって、佐原は窓の外を見た。


静かな夜。


街の明かりが、遠くで瞬いている。


その時、ふと。


心の中で、声がした。


(怖いの?)


佐原は驚いた。


声が、はっきりと聞こえた。


(病院、怖いの?)


別の声。


(大丈夫だよ)


また別の声。


(僕らが、いるから)


(一人じゃないよ)


(心配しないで)


次々と、声が聞こえてくる。


佐原は、その声に耳を傾けた。


もう、怖くなかった。


彼らの声は、優しい。


励ましてくれている。


「ありがとう……」


小さく呟いた。


すると、声は静かになった。


でも、消えたわけではない。


そこに、いる。


いつも、一緒にいてくれる。


佐原は、少し安心した。


そして、ベッドに戻った。


目を閉じる。


今度は、すぐに眠りに落ちた。


夢の中で、八人の青年たちが待っていた。


「明後日、病院に行くんだね」


一人が言った。


知的な雰囲気の青年。


「怖いかもしれないけど、大丈夫」


力強い青年。


「僕らが、ずっと一緒だから」


几帳面な青年。


「何があっても、守るよ」


若々しい青年。


「安心して」


穏やかな青年。


「心配せんでええって」


関西弁の青年。


「みんなで、乗り越えよう」


おしゃべりな青年。


「僕らは、君の一部だから」


クールな青年。


八人が、それぞれ佐原を励ます。


佐原は夢の中で、彼らに囲まれていた。


温かい。


安心できる。


「ありがとう……みんな」


佐原は呟いた。


青年たちは微笑んだ。


そして、ゆっくりと佐原に近づいてきた。


抱きしめるように。


佐原は、その温もりの中で。


深い眠りに落ちていった。


でも、その眠りの中で。


佐原悠という一人の人格は。


さらに薄れていった。


八つの人格が、より強く、より明確になっていく。


もう、元には戻れない。


それは、確実だった。

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