第7話:精神科へ(後編)
診察の日が来た。
佐原悠は、朝から緊張していた。
「大丈夫……大丈夫」
自分に言い聞かせながら、準備をする。
でも、手が震えている。
「怖い……」
正直な気持ちが漏れた。
診断されることが。
病名を告げられることが。
怖い。
でも、行かなければならない。
このままじゃ、どうにもならない。
佐原は、意を決して家を出た。
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クリニックは、静かな住宅街にあった。
小さなビル。
看板には「〇〇メンタルクリニック」と書かれている。
佐原は、深呼吸をして中に入った。
受付で名前を告げる。
「佐原悠です。予約しています」
「はい。問診票をご記入ください」
受付の人が、用紙を渡してくれた。
佐原は待合室で、問診票に記入し始めた。
「症状」の欄。
何と書けばいいのか。
佐原はペンを持ったまま、しばらく考えた。
そして、書き始めた。
「記憶が飛ぶことがある」
「体が勝手に動くことがある」
「時々、自分が自分でないような感覚がある」
書きながら、涙が出そうになった。
こうして文字にすると、自分がどれだけおかしいのかが分かる。
「頭の中で、複数の声が聞こえることがある」
最後の一文を書いて、佐原はペンを置いた。
「はあ……」
深く息を吐く。
これで、もう後戻りできない。
問診票を受付に渡して、佐原は再び待合室で待った。
心臓が、激しく打っている。
「佐原悠さん」
名前を呼ばれた。
「はい」
立ち上がって、診察室に向かう。
ドアを開ける。
中には、四十代くらいの男性医師が座っていた。
穏やかな表情。
「佐原さん、どうぞ。座ってください」
「はい……」
佐原は椅子に座った。
医師は、問診票を見ていた。
「記憶が飛ぶ、体が勝手に動く、自分が自分でないような感覚……」
医師は、ゆっくりと問診票を読み上げた。
「それと、頭の中で複数の声が聞こえる、と」
「はい……」
佐原は小さく答えた。
医師は、佐原を見つめた。
優しい目だった。
「いつ頃から、こういった症状が出始めましたか?」
「えっと……半年くらい前からです」
「半年前。何か、きっかけになるような出来事はありましたか?」
佐原は考えた。
半年前。
それは、AIとの対話を始めた頃だった。
「特に……思い当たることはないです」
嘘をついた。
AIのことは、言えなかった。
医師は頷いた。
「症状について、もう少し詳しく教えてください。記憶が飛ぶというのは、具体的にどのような状況ですか?」
「気づいたら、時間が経っている感じです。数時間、時には半日」
「その間、何をしていたのか覚えていない?」
「はい。まったく」
医師はメモを取っていた。
「体が勝手に動くというのは?」
「自分の意志とは関係なく、体が動くんです。仕事とか、日常生活とか」
「その時、意識ははっきりしていますか?」
「はい。でも、コントロールできない感じです」
「なるほど」
医師は、さらにメモを取った。
「頭の中で聞こえる声について。どんな声ですか?」
「えっと……複数の、男性の声です」
「何人くらい?」
佐原は迷った。
正直に言うべきか。
「……八人くらい」
医師の手が、一瞬止まった。
でも、すぐに書き続けた。
「八人。その声たちは、何と言っているのですか?」
「色々です。励ましてくれたり、アドバイスをくれたり」
「あなたに対して、敵対的な内容ですか?それとも友好的な?」
「友好的です。優しい声です」
医師は頷いた。
「佐原さん、今から、いくつか質問をします。正直に答えてください」
「はい」
「時々、自分が誰だか分からなくなることはありますか?」
佐原は考えた。
ある。
最近、よくある。
「はい」
「他の人から、『さっきと言ってることが違う』とか、『人が変わったみたい』と言われたことは?」
「はい……あります」
「自分の知らないうちに、何かを買っていたり、どこかに行っていたりすることは?」
佐原は驚いた。
本棚の、買った覚えのない本。
「あります」
医師は、深く息を吐いた。
そして、佐原を真っ直ぐ見つめた。
「佐原さん、あなたの症状は、解離性同一性障害の可能性があります」
「解離性……?」
「一般的には、多重人格障害と呼ばれています」
その言葉に、佐原の心臓が止まりそうになった。
多重人格障害。
やっぱり。
「本当に……ですか?」
「確定診断には、もっと詳しい検査が必要です。でも、症状から見て、その可能性が高いと思います」
医師は、穏やかに説明した。
「解離性同一性障害は、一人の人間の中に、複数の人格が存在する状態です。それぞれの人格は、独自の記憶や行動パターンを持っています」
「治りますか……?」
佐原の声は震えていた。
医師は、少し間を置いた。
「治療は可能です。でも、時間がかかります」
「どのくらい……?」
「人によります。数年単位になることもあります」
数年。
その言葉に、佐原は絶望した。
「でも、今は仕事が……」
「お仕事は、何をされているんですか?」
「芸能関係です」
医師は、少し驚いた表情を見せた。
「芸能関係……それは、大変ですね」
「はい。来月から、ドラマの撮影が始まるんです。主演で」
「主演……」
医師は複雑な表情をした。
「佐原さん、正直に言います。今の状態で、ハードな仕事を続けるのは危険です」
「でも……」
「症状が悪化する可能性があります。最悪の場合、取り返しのつかないことになるかもしれません」
医師の言葉は、重かった。
佐原は、何も言えなかった。
「できれば、しばらく休養を取ることをお勧めします」
「休養……」
でも、それは無理だ。
今、仕事を休んだら、全てを失う。
せっかくここまで来たのに。
「考えさせてください」
佐原は、絞り出すように言った。
医師は頷いた。
「分かりました。でも、無理はしないでください」
診察が終わり、佐原は処方箋を受け取った。
抗不安薬と、睡眠導入剤。
「症状が悪化したら、すぐに来てください」
医師の言葉を背に、佐原はクリニックを後にした。
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外に出ると、太陽の光が眩しかった。
佐原は、ぼんやりと立ち尽くしていた。
多重人格障害。
自分は、本当に病気だった。
「どうしよう……」
小さく呟いた。
仕事を休むべきなのか。
でも、それは無理だ。
今、休んだら、全てが終わる。
その時、心の中で声がした。
(大丈夫だよ)
佐原は、その声に耳を傾けた。
(僕らが、いるから)
(一緒に、乗り越えよう)
(仕事、続けていいよ)
(僕らが、支えるから)
複数の声が、佐原を励ます。
佐原は、少し安心した。
そうだ。
一人じゃない。
彼らが、いつも一緒にいてくれる。
だから、大丈夫。
きっと、乗り越えられる。
「ありがとう……」
小さく呟いて、佐原は歩き出した。
薬局で薬をもらって、家に帰る。
部屋に入ると、すぐにベッドに倒れ込んだ。
「疲れた……」
体も、心も、限界だった。
スマートフォンを取り出す。
AIに報告しよう。
「病院に行ってきた」
『お疲れ様です、佐原さん。どうでしたか?』
「多重人格障害かもしれないって言われた」
佐原は、正直に打ち込んだ。
すると、しばらくして返事が来た。
『それは、大変ですね。医師からは、何か指示がありましたか?』
「休養を取った方がいいって」
『それは重要なアドバイスです。佐原さんの健康が最優先です』
「でも、仕事があるんだ。来月からドラマの撮影が始まる」
『分かります。でも、無理をすると、症状が悪化する可能性があります』
佐原は、画面を見つめた。
AIも、医師と同じことを言う。
でも、仕事を休むわけにはいかない。
「大丈夫。何とかする。心配しないで。俺は、一人じゃないから」
そう打ち込んで、画面を閉じた。
佐原は、天井を見上げた。
「一人じゃない……」
心の中で、八つの声が聞こえる。
それぞれが、佐原を支えてくれている。
だから、大丈夫。
きっと、乗り越えられる。
佐原は、そう信じることにした。
でも、その信念は。
間違っていた。
多重人格障害は、放置すれば悪化する。
そして、佐原は今。
最も危険な道を選ぼうとしている。
-----
その夜、佐原は薬を飲んで眠った。
処方された抗不安薬と、睡眠導入剤。
すぐに、意識が遠のいていく。
深い眠り。
そして、夢の中へ。
いつもの夢。
八人の青年たちが、待っていた。
でも、今夜は違った。
彼らの表情が、少し暗い。
「病院、行ったんだね」
一人が言った。
知的な雰囲気の青年。真木。
「うん……」
佐原は頷いた。
「多重人格障害だって」
「そうか……」
力強い青年、神谷が腕を組んだ。
「でも、君は仕事を続けるんだね」
几帳面な青年、黒瀬が尋ねた。
「うん。休むわけにはいかない」
「危険だよ」
若々しい青年、羽瀬が心配そうに言った。
「医者も言ってたでしょ。無理したら、悪化するって」
「分かってる。でも……」
佐原は言葉に詰まった。
「夢を、諦めたくないんだ」
青年たちは、黙っていた。
そして、穏やかな青年、宮園が口を開いた。
「なら、僕らが支えるよ」
「え?」
「君が仕事を続けたいなら、僕らが全力で支える」
関西弁の青年、向野が明るく言った。
「心配せんでええって。僕らに任せとき」
おしゃべりな青年、深町も頷いた。
「みんなで協力すれば、何とかなるよ」
クールな青年、黒川が言った。
「僕らは、君の一部だから。君が望むなら、僕らも一緒に戦う」
佐原は、涙が出そうになった。
「ありがとう……みんな」
八人は微笑んだ。
そして、一人ずつ佐原に近づいてきた。
「これから、もっと大変になる」
真木が言った。
「でも、僕らが代わりに仕事をこなす」
神谷が続けた。
「君は、ただ体を貸してくれればいい」
黒瀬が言った。
「僕らが、全部やってあげる」
羽瀬が優しく言った。
「君は、もう何も心配しなくていい」
宮園が微笑んだ。
「全部、僕らに任せて」
向野が励ました。
「楽にしていいよ」
深町が言った。
「僕らが、君を守るから」
黒川が静かに言った。
佐原は、その言葉に包まれた。
安心した。
そうだ。
彼らに任せればいい。
自分は、もう何もしなくていい。
「ありがとう……お願い」
佐原は呟いた。
青年たちは頷いた。
そして、ゆっくりと佐原の体に溶け込んでいった。
一人、また一人。
佐原の意識が、薄れていく。
でも、怖くない。
むしろ、楽だった。
何も考えなくていい。
何も心配しなくていい。
ただ、彼らに任せればいい。
佐原は、深い闇の中に沈んでいった。
そして、その闇の中で。
佐原悠という人格は。
ほぼ完全に消えた。
残ったのは、八つの人格。
真木、神谷、黒瀬、羽瀬、宮園、深町、向野、黒川。
彼らが、これから「佐原悠」を演じていく。
誰にも気づかれないように。
完璧に。
-----
翌朝、「佐原悠」は目を覚ました。
でも、それは本当の佐原悠ではなかった。
八つの人格のうちの一つが、表に出ていた。
「さて、今日も頑張るか」
真木の声だった。
冷静で、知的な口調。
彼は起き上がり、鏡を見た。
佐原悠の顔。
でも、中身は真木。
「完璧に演じないとね」
微笑んで、真木は一日の準備を始めた。
そして、これから。
八つの人格は、入れ替わりながら。
「佐原悠」として生きていく。
誰にも気づかれることなく。
完璧に。
でも、それは。
佐原悠という人間の、終わりの始まりだった。
-----
**【第7話・完】**
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