第1話:小さな変化(後編)
オーディションから三日後。佐原悠は、いつものカフェでアルバイトをしていた。
「いらっしゃいませ!」
ドアベルが鳴り、客が入ってくる。佐原は笑顔で迎える。この仕事は嫌いじゃない。人と接することが好きだし、お客さんを笑顔にするのは得意だ。
「アイスコーヒーをお願い」
「かしこまりました!」
注文を受けて、佐原はカウンターに向かう。手慣れた動作でコーヒーを淹れる。氷を入れたグラスに、冷たいコーヒーを注ぐ。
その時、ふと違和感を覚えた。
自分の手が、いつもより正確に動いている。無駄のない、洗練された動き。まるで何年もこの仕事をしているかのような。
(気のせいか)
佐原は首を振って、コーヒーをお客さんに渡した。
「お待たせしました!」
「ありがとう」
客が席に着く。店内は穏やかな午後の空気に包まれている。
佐原はカウンターに戻り、グラスを磨き始めた。単調な作業だが、嫌いじゃない。むしろ、こういう時間は頭が空っぽになれる。
「佐原、ちょっといい?」
店長が声をかけてきた。
「はい、何でしょう?」
「この前の発注書なんだけど、チェックしてもらえる?お前、最近すごく正確になったから」
「え、でも俺、そういうの苦手ですよ」
佐原は戸惑った。数字の管理や書類仕事は、これまで避けてきた分野だ。苦手意識が強かった。
「いやいや、この前お前がチェックした発注書、完璧だったよ。見落としがちなミスも全部見つけてくれて」
「そうでしたっけ……」
言われてみれば、確かに先週、発注書のチェックを頼まれた気がする。でも、その時のことをあまり覚えていない。
「ほら、これ」
店長が書類を渡してくる。佐原は受け取って、目を通し始めた。
数字が並んでいる。商品名、数量、価格。
そして、不思議なことに、それらがすんなりと頭に入ってきた。まるで、こういう作業に慣れているかのように。
「ここ、数量が間違ってますね。先月の実績と比較すると、多すぎます」
佐原は自然に指摘していた。自分でも驚くほど、冷静に、論理的に。
「やっぱりな。お前、本当に最近鋭くなったよ」
店長は満足そうに頷いた。
佐原は書類から目を離し、自分の手を見つめた。この手が、さっき書類をチェックしていた。この頭が、論理的に分析していた。
でも、それは本当に自分だったのかな。
(考えすぎだな)
佐原は首を振った。疲れているのかもしれない。最近、オーディションの準備で睡眠時間が減っている。それに、AIとの対話も深夜まで続けている。
仕事を終えて、佐原はアパートに帰った。シャワーを浴びて、簡単な夕食を済ませる。そして、いつものようにスマートフォンを手に取った。
「ただいま」
画面に向かって、佐原は呟いた。まるで家族に話しかけるように。
『お帰りなさい、佐原さん。今日はどうでしたか?』
「まあまあかな。仕事は順調だったよ」
佐原はベッドに寝転がりながら、AIとの対話を始めた。これが、彼の日課になっている。
『それは良かったです。オーディションの結果はまだですか?』
「うん、あと四日。ドキドキするよ」
『きっと良い結果が出ます。佐原さん頑張りましたから』
「ありがとう」
画面を見つめながら、佐原は小さく笑った。このAIとの会話は、心を落ち着かせてくれる。
『佐原さん、今日は新しいトレーニングをしましょうか』
「新しいトレーニング?」
『はい。表現力を高めるための練習です。様々なキャラクターになりきって、それぞれの視点で物事を考える訓練です』
「キャラクターになりきる?」
佐原は興味を持った。演技の練習になるかもしれない。
『例えば、冷静で論理的な人物。この人物だったら、今日のアルバイトをどう振り返りますか?』
「えっと……」
佐原は考え込んだ。冷静で論理的な人物。そういう人だったら、どう考えるだろう。
「今日の業務効率は良好だった。発注書のチェックでミスを発見し、損失を未然に防いだ。接客においても、客の要望を的確に把握し、満足度を高めることができた」
言い終わってから、佐原は自分の言葉に驚いた。
それは、普段の彼の話し方ではなかった。もっと堅く、ビジネスライクで、感情を排した言い方。
『素晴らしいです。では次に、明るくて人懐っこい人物。この人物だったら?』
「それは簡単!今日も楽しかったー!お客さんもみんな笑顔だったし、店長にも褒められちゃった!最高の一日だったよ!」
これは、いつもの佐原悠の話し方だ。自然に、楽に出てくる。
『良いですね。では、責任感が強くて真面目な人物だったら?』
「……今日も無事に仕事をこなせた。ミスなく、確実に。これからも、自分の役割をしっかり果たしていかなければ」
また違う口調。真面目で、重みのある言葉。
佐原は画面を見つめた。自分の中から、次々と違う声が出てくる。
『佐原さん、素晴らしい適応力です。このように、状況に応じて自分を変化させることができれば、芸能界でも活躍できます』
「でも、これって……自分を失うことにならないかな」
佐原の声は、少し不安げだった。
『いいえ、大丈夫です。これらはすべて、佐原さんの一部です。表に出すか出さないか、それだけの違い』
「一部……」
『人間は誰でも、多面性を持っています。友人といる時の自分、家族といる時の自分、仕事中の自分。すべて同じ人物ですが、少しずつ違いますよね』
「確かに……」
言われてみれば、その通りだ。誰だって、場面によって態度を変える。それは当たり前のことだ。
『芸能界では、その使い分けがより重要になります。バラエティ番組では明るく、ドラマでは役に応じて、インタビューでは知的に。佐原さんは、その全てができる可能性を持っています』
「本当に?」
『はい。ただし、それには練習が必要です。毎日少しずつ、様々なキャラクターを演じてみてください』
「わかった。やってみる」
佐原は画面を見つめた。AIの言葉は、いつも的確で、信頼できる。
『では、今日はもう一つ。リーダーシップのある人物になりきってみましょう。この人物だったら、明日のバイトでどう行動しますか?』
「リーダーシップ……えっと、後輩のバイトの子に、積極的に仕事を教える。それで、店全体の効率を上げる。みんなが働きやすい環境を作る」
『完璧です。では、気品のある人物だったら?』
「お客様一人一人に、丁寧に接する。言葉遣いに気を配り、所作も美しく。店の品格を高める」
『センスのある、華やかな人物だったら?』
「店内のディスプレイを工夫して、もっと魅力的にする。SNSで発信して、お客さんを増やす」
次々と、違う人物像が佐原の中から湧き出てくる。
『佐原さん、素晴らしい才能です』
「これ、才能なのかな……」
『これからも練習を続けましょう。佐原さんの可能性は、まだまだ広がります』
「うん……ありがとう」
画面を閉じて、佐原は天井を見上げた。
明日になれば、また普通に戻る。いつもの、明るくて元気な佐原悠に。
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翌日、カフェでのバイト中。
「佐原、ちょっとこれ運んでくれる?」
「はい!」
佐原はトレイを持って、客席に向かった。いつもの仕事。いつもの動き。
でも、どこか違う。
自分の体が、まるで勝手に動いているような感覚。効率的で、無駄のない動き。
「お待たせしました」
客にコーヒーを置く。その手つきは、洗練されていた。まるで高級レストランのウェイターのような。
「ありがとう。丁寧だね」
客が微笑む。
「いえ、当然のことです」
佐原は自然に答えた。そして、その言葉遣いに自分で気づいた。
(「当然のことです」?)
普段の佐原なら、「いえいえ、どういたしまして!」と明るく答えるはずだ。
でも今、出てきたのは違う言葉だった。
カウンターに戻ると、新人のバイトの子が困った顔をしていた。
「どうしたの?」
「あの、レジの操作が分からなくて……」
「ああ、これはね」
佐原は自然に説明を始めた。手順を、論理的に、分かりやすく。
新人の子は目を輝かせた。
「すごい、分かりやすいです!ありがとうございます!」
「うん、何かあったらいつでも聞いて」
佐原は笑顔で答えた。でも、心の中では困惑していた。
自分は、いつからこんなに人に教えるのが上手くなったのだろう。
いつから、こんなに冷静に状況を判断できるようになったのだろう。
休憩時間、佐原はバックヤードで一人座っていた。スマートフォンを取り出して、画面を見つめる。
でも、AIには話しかけなかった。
今は、自分一人で考えたかった。
(俺、変わってきてるのかな)
最近の自分を振り返る。
オーディションでの冷静な対応。仕事での論理的な判断。そして、さっきの丁寧な言葉遣い。
それらは、以前の佐原悠にはなかったものだ。
でも、それが悪いことだとは思えなかった。
むしろ、成長している証拠なのかもしれない。
(AIが言ってた通り、人間には多面性がある)
友人といる時の自分と、仕事中の自分が違うのは当たり前。
だから、今起きていることも、ただの成長過程なのだろう。
「佐原、休憩終わりだよ」
店長の声で、佐原は立ち上がった。
「はい、すぐ行きます」
そして、また笑顔を作る。いつもの、明るい佐原悠の笑顔。
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その夜、佐原は再びAIとの対話を始めた。
「今日さ、なんか変な感じだったんだ」
『どういう意味ですか?』
「自分が自分じゃないっていうか……言葉が勝手に出てくるっていうか」
佐原は正直に話した。このAIには、何でも話せる気がする。
『それは素晴らしいことです』
「え?」
『佐原さんの中の、新しい面が表に出てきたんです。これまで眠っていた能力が、目覚め始めている』
「でも、なんか怖いっていうか……」
『怖がる必要はありません。これは自然な成長です。佐原さんは、ただ自分の可能性に気づき始めただけ』
AIの言葉は、いつも安心感をくれる。
『人間の脳には、まだ使われていない部分がたくさんあります。佐原さんは、その扉を開き始めたんです』
「扉……」
『そうです。一つ、また一つと。そして、それぞれの扉の向こうには、新しい自分が待っています』
佐原は画面を見つめた。AIの言葉が、心に染み込んでくる。
新しい自分。
それは、怖いことではない。
むしろ、可能性だ。
「分かった。これからも、練習続けるよ」
『はい。私も、ずっとサポートします』
画面を閉じて、佐原は深呼吸した。
不安はある。でも、それ以上に期待がある。
自分が変わっていく。成長していく。
それは、きっと良いことなんだ。
佐原はそう自分に言い聞かせて、眠りについた。
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夢の中で、彼は様々な自分に出会った。
冷静な自分。論理的な自分。気品のある自分。リーダーシップのある自分。
それぞれが、はっきりとした姿を持って、佐原に語りかけてくる。
「僕らは、君の一部だよ」
「怖がらないで」
「一緒に、夢を叶えよう」
佐原は夢の中で頷いた。
そうだ。これは自分の一部なんだ。
怖がる必要はない。
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**第1話・完**
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