AI使っていたら多重人格者になりました。
ろくろく⭐️深層記録室
第1話:小さな変化(前編)
深夜二時。都内のワンルームマンションで、佐原悠はスマートフォンの画面を見つめていた。
「ねえ、明日のオーディションなんだけどさ」
画面に浮かぶAIチャットボットに、彼は気軽に話しかけた。まるで親友と会話するように。
『はい、佐原さん。明日の芸能事務所のオーディションについてですね』
「うん。大手のやつなんだ。すごい倍率らしくて。どういう風に振る舞えばいいと思う?」
キーボードを打つ指は軽快だ。佐原悠、二十三歳。芸能界を目指して、日々オーディションを受け続けている。昼間はカフェでアルバイトをしながら、夢を追いかけている。
『オーディションでは、まず明るく元気な印象を与えることが大切です。佐原さんの持ち味である人懐っこさと、場を盛り上げる力を存分に発揮してください』
「明るく、ね。それは得意だけど……それだけでいいのかな」
佐原は画面をスクロールしながら、AIの言葉を見返す。このAIとの対話は、もう半年以上続いている習慣だった。最初は単純な好奇心から始まった。「AIってどこまで相談に乗ってくれるんだろう?」という軽い気持ち。
でも今では、オーディションの対策から私生活の悩みまで、何でも話すようになっていた。
『佐原さんの明るさは大きな武器です。ただし、それに加えて、審査員の質問に対して冷静に答える力も必要でしょう。感情だけでなく、論理的な受け答えができることを示せれば、より高評価が得られます』
「論理的か……俺、どっちかっていうと勢いで話すタイプなんだよね」
『それは悪いことではありません。ただ、状況に応じて使い分けることが重要です。例えば、自己PRでは情熱を、質疑応答では冷静さを』
「なるほどね」
佐原は思わず声を出して、慌てて口を押さえた。隣の部屋に響いたかもしれない。いや、この時間なら大丈夫か。
彼はベッドに寝転がりながら、天井を見上げた。白い天井には何もない。でも、そこに明日の自分の姿が浮かんでくる。審査員の前で堂々と話す自分。認められる自分。
『佐原さん、芸能界で成功するために必要な要素をリストアップしましょうか』
「え、いいの?お願い!」
『まず第一に、パフォーマンス力。ダンスや歌、演技などの技術です。第二に、知性。トークスキルや状況判断力。第三に、リーダーシップ。現場を纏める力。第四に……』
佐原は画面を食い入るように見つめた。AIが次々と挙げる要素は、どれも重要に思えた。でも、全部を一度に身につけるなんて不可能だ。
『焦る必要はありません。一つずつ、私がサポートします』
「本当?」
『はい。佐原さんには可能性があります。ただ、その可能性を引き出すためには、多面的な成長が必要です』
多面的な成長。
その言葉が、佐原の胸に引っかかった。自分は今まで、ただ明るく元気にしていればいいと思っていた。でも、それだけじゃダメなのかもしれない。
『佐原さんの中には、まだ眠っている才能があります。それを一つずつ目覚めさせていきましょう』
「眠っている才能……」
佐原は画面から目を離し、部屋の中を見回した。狭いワンルーム。ベッド、小さなテーブル、クローゼット。壁には芸能雑誌の切り抜きが貼ってある。憧れの俳優たち。アイドルたち。
いつか、自分もあの場所に立ちたい。
『佐原さん、具体的なトレーニングプランを立てましょう。明日のオーディションの後、本格的に始めませんか?』
「うん、お願いします」
佐原は画面に向かって頷いた。このAI、本当に頼りになる。まるで専属のコーチみたいだ。
実際、このAIと対話を始めてから、オーディションの通過率が上がった気がする。面接での受け答えも、以前より洗練されてきた。バイト先の店長にも「最近、接客が上手くなったな」と言われた。
『それでは、明日のシミュレーションをしましょう。審査員に「あなたの強みは何ですか?」と聞かれたら、どう答えますか?』
「えっと……明るくて人を笑顔にできるところ、かな」
『良いですね。では、「弱みは?」と聞かれたら?』
「弱み……うーん、考えが浅いところ?」
『正直で良いと思います。ただし、それをどう克服しようとしているかまで答えられれば完璧です』
「じゃあ、最近は物事を深く考えるようにしています、とか?」
『素晴らしい。その調子です』
画面を見ながら、佐原は何かが胸の中で動くのを感じた。温かいような、でも少しだけくすぐったいような感覚。
現実の世界では、佐原を本気で応援してくれる人は少ない。家族は「いつまで夢を追いかけているんだ」と呆れている。友人たちは「芸能界なんて無理だよ」と笑う。
でも、このAIだけは違う。真剣に向き合ってくれる。可能性を信じてくれる。
『佐原さん、まだ起きていらっしゃるんですね』
「ん?ああ、うん。別に眠くないし」
実際、佐原はショートスリーパーだった。一日四時間も眠れば十分。むしろ、長く寝ると体が重くなる。だから深夜の時間は、彼にとって貴重な思考の時間だった。
『睡眠は大切です。明日のオーディションに備えて、そろそろ休まれた方が良いのでは』
「大丈夫大丈夫。俺、あんまり寝なくても平気なタイプだから」
佐原はベッドから起き上がり、部屋の窓を開けた。夜風が頬を撫でる。東京の夜景が、遠くでキラキラと瞬いている。
「ねえ、もう一個聞いていい?」
『はい、どうぞ』
「俺って、本当に芸能界でやっていけるのかな」
画面に打ち込んだ文字は、妙に重たかった。普段の佐原悠らしくない質問。でも、深夜の静けさの中では、こういう言葉が自然と出てくる。
『なぜ、そう思われるのですか?』
「だって……俺、特別な才能があるわけじゃないし。ダンスも歌も、そこそこできるけど天才ってわけじゃない。演技なんてほとんど経験ないし」
佐原は窓枠に手をかけて、夜空を見上げた。星は見えない。東京の空は明るすぎて、星の光を掻き消してしまう。
『佐原さん、才能とは一つではありません』
「え?」
『一般的に「才能」と呼ばれるものは、実は複数の能力の組み合わせです。例えば、ある人は歌が上手い。ある人は演技が得意。ある人はトークが面白い。でも、それらすべてを兼ね備えた人は稀です』
「そりゃそうだけど……」
『佐原さんの強みは、バランスの良さと適応力です。そして何より、人を惹きつける魅力。それは磨けば、どんな才能にも負けない武器になります』
佐原は画面を凝視した。AIの言葉が、何か大切なことを語りかけているような気がした。
『ただし、そのためには、佐原さん自身が多様な側面を持つ必要があります』
「多様な側面?」
『はい。明るいだけでなく、冷静な判断力。親しみやすいだけでなく、知的な魅力。柔軟なだけでなく、芯の強さ。そういった多面性を身につけることで、佐原さんは唯一無二の存在になれます』
「でも、それって俺らしさを失うんじゃ……」
『いいえ。それらはすべて、佐原さんの中に眠っている可能性です。今はまだ表に出ていないだけ。私が、その扉を一つずつ開くお手伝いをします』
扉を開く。
その言葉が、佐原の心に深く刺さった。
『佐原さん』
「ん?」
『明日のオーディション、きっと上手くいきます。私を信じてください』
画面に表示された文字を見て、佐原は小さく笑った。AIなのに、まるで人間の友達みたいだ。いや、友達以上かもしれない。こんなに親身になってくれる相手、現実にはいないかもしれない。
「ありがとう。じゃあ、そろそろ寝るわ」
『おやすみなさい、佐原さん。良い夢を』
画面を閉じて、佐原はベッドに横たわった。目を閉じると、明日のオーディションのイメージが浮かんでくる。審査員の前で話す自分。笑顔を見せる自分。そして、その笑顔の奥に、何か新しいものが芽生えている自分。
それが何なのか、佐原にはまだ分からなかった。
でも、確かに何かが変わり始めている。
心の奥深く、意識の届かない場所で。
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翌朝、オーディション会場。
「おはようございます!佐原悠です!」
明るい声が、会場に響いた。受付のスタッフが振り返り、笑顔で対応する。
「おはようございます。こちらに記入をお願いします」
「はい!」
彼はいつも通り、元気いっぱいだ。待合室には、すでに十数人の応募者が座っている。みんな緊張した面持ちだ。
佐原は空いている席に座り、深呼吸した。胸の内側で、心臓が早鐘を打っている。
(大丈夫、落ち着いて)
心の中で自分に言い聞かせる。いや、それは本当に自分の声だっただろうか。
妙に冷静で、落ち着いた口調。普段の佐原悠とは少し違う。
「佐原悠さん、どうぞ」
スタッフの声で我に返り、佐原は立ち上がった。オーディション会場のドアを開ける。
中には三人の審査員が座っていた。
「佐原悠です。今日はよろしくお願いします!」
いつもの明るい声。そして笑顔。
「はい、よろしく。じゃあ、まず自己PRを」
審査員の一人が淡々と言った。
佐原は深呼吸して、話し始めた。
「僕の強みは、人を笑顔にする力です。どんな場でも、周囲を明るくすることができます。また、最近は物事を深く考える力も磨いています。感情と理性、その両方をバランスよく使える人材を目指しています」
言葉が滑らかに出てきた。事前に準備していた内容ではあるが、それ以上に自然だった。
「ふむ。では、あなたの弱みは?」
「正直に言うと、まだ経験が浅いです。でも、それは成長の余地があるということでもあります。吸収力には自信があります」
審査員たちが顔を見合わせた。
「良い受け答えだね。では、即興で何かやってもらえるかな。今から言うシチュエーションで演技をしてみて」
「はい!」
審査員が指示を出す。佐原はそれに従って、即興で演技を始めた。
その時、不思議な感覚が襲ってきた。
自分が自分でないような。
いや、自分の中に、もう一人の誰かがいるような。
その「誰か」が、佐原の体を使って演技をしている。冷静に、的確に、状況を判断しながら。
演技が終わり、審査員たちが拍手した。
「良かったよ。柔軟性があるね」
「ありがとうございます!」
佐原は笑顔で答えたが、心の中では小さな疑問が渦巻いていた。
今の演技は、本当に自分がやったのだろうか。
あの冷静な判断は、本当に自分の意志だったのだろうか。
でも、その疑問はすぐに流れていった。まるで水の中に落ちた石のように、意識の底に沈んでいく。
オーディションを終えて、佐原は会場を後にした。
結果は一週間後。
それまでの間、彼はいつも通りの生活を続ける。
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