第3話 十五人の顔を覚える

2025年9月7日 台風一過の空が、朝から焼けた。


自治会事務所の窓を開けると、ビルの谷間に溜めた熱が、どっと押し寄せた。


「会長、38,886人ですよ、38,886!」


鈴木副会長は、机の上のアンケート結果を、指でばりばりと鳴らした。


「技能実習生のうち、三割が週六十時間超え。過労死した京都の例もある。数字より人間の命が先でしょう!」


私は、麦茶のグラスを傾けながら、彼の頭の後ろに掛かった「さくら通り振興会」の垂れ幕を見た。赤は褪せ、金の刺繍は糸を引いている。まるで、私たちの気持ちみたいに、色あせてはいるが、まだ途切れていない。


「鈴木さん、お前が言うことはわかる。でも、県の補助金を断ったら、商店街の灯りが一気に減る」


「灯り?」


 彼は、ぎょろりと目を剥いた。


「電気より、心配なのは火事だ! 受け入れ企業の労務管理が杜撰ずさんなら、商店街全体が燃えますよ」


 カラン、とグラスが音を立てた。麦茶の底に、丸氷が一つ残った。まるで、私の言葉が詰まったまま、溶けていくような。


「……まず、顔を見よう」


 私は、立ち上がった。膝が、からりと鳴る。


「数字は明日でも変わる。でも、目の前の顔は、今日逃したらもう会えん」


【午後】


 集会所は、クーラーが効きすぎていた。


 十八人の店舗代表が、円形のテーブルを囲む。窓の外に、台風が吹き飛ばしたはずの夕日が、看板にどっぷりと沈んでいる。血のような朱色だった。


「川村です。PTAの立場から一言」


 挙手したのは、三十八歳の川村彩。子どもを膝に抱えたまま、立ち上がった。


「うちの小学校には、すでに八カ国の子がいます。日本語教室がなければ、授業についていけない。商店街にも、‘子ども向け多言語案内’をお願いします」


 ざわめきが、天井を這う。


「飲食店は大変ですよ」


 寿司屋の主人が、腕組みした。


「ベトナム人の子、‘おはよう’も言えずに辞めていく。教育する余裕はない」


 私は、手元のメモを見た。


 ――「10.9%増」――


 昨日、市役所の村井係長が提示した、外国人労働者の伸び率だ。


 その数字が、胸の奥で、小さな棘のようにうずく。


 ふと、扉の隙間から風が入った。コリアンダーと、ナンプラーの香り。


 隣のベトナム料理店「ハノイ」が、仕込みを始めた時間だ。


「会長、どう思います?」


 鈴木に突きつけられた視線。


 私は、ゆっくりと腰を上げた。杖の先が、ビニール床をきい、きい、と鳴る。


「思いは、一つだけだ」


 私は、窓を開けた。熱風が、一気に吹き込んだ。


「38,886という数字は、県の戸籍にある。だが、商店街にあるのは、十五人の‘顔’だ。顔を覚えて、名前を呼べば、数字は温もりになる」


 誰かが、小さく笑った。


 誰かが、舌打ちした。


 でも、風は確かに動き出していた。


【夕方】


 私と鈴木は、杖と汗を交互に鳴らして、さくら通りを歩いた。


 空は、すでに秋の気配。雲が高く、星が透けて見えるほどだ。


「ハノイ」の暖簾のれんをくぐると、二十歳そこそこの青年が、玉ねぎを刻んでいた。


「チュン・ヴァン・ラム」


 名札は、ひらがなで書かれている。


「すみません、日本語、ちょっと……」


 彼は、首をすくめた。だが、包丁は止まらない。紫色の玉ねぎが、涙と一緒に薄紙のように積まれる。


「日本の、秋?」


 私が聞くと、彼は窓を指差した。


「風、臭い、変わる。フォー、売れる」


 くすり、と鈴木が笑った。


「会長、奴は‘すみません’しか言えないって話でしたけど、‘フォー売れる’はしゃべってますよ」


「必要な言葉は、自然に覚えるんだろうて」


 店を出ると、西日が、石畳をオレンジに染めていた。


 私は、杖を振り上げて、影を落とした。影の先に、若者の背中が重なる。


 ――俺たちも、かつては「すみません」しか言えなかった。


 ――商店街に呼ばれて、やっと「ありがとう」を覚えた。


【夜】


 自宅の縁側では、節子が、竹の皮を広げていた。


 見舞いの団子だ。丸い餅の間に、桜の葉が一枚挟まれている。


「隣のベトナム人家族がくれたの。‘お見舞い’って、外国でも同じ心だって」


 私は、団子を一つ手に取った。風に揺れる桜の葉が、夜気にほのかに香る。


「38,886という数字が、今日は‘温もり’に見えたよ」


 節子は、笑って、茶を注いだ。湯気が、電灯を包み、白く滲む。


 私は、内ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。


 ――自治会・合意書案――


 一行だけ、鉛筆で追記してある。


 「まずは、十五人の顔を覚えることから始めよう。電灯を共に点す関係を、優先する」


「鈴木さん、きっと文句を言うだろうな」


「でも、あなたは言うでしょう。‘数字より人の目を見ろ’って」


 私は、団子を口に運んだ。


 餅の甘さと、桜の塩気。


 ――外国でも、日本でも、見舞いの心は同じ。


 ――だったら、38,886の温もりも、同じはずだ。


 風鈴が、ちりん、と鳴った。


 九月七日、台風一過の夜。


 私は、杖をたたきながら、自分自身に言い聞かせた。


 明日も、石畳を歩こう。


 名前を呼び、手を振り、電灯を共に点そう。


 数字ではなく、人の温もりを、商店街の灯りにして。


 空には、細い月がかかっている。


 まるで、三十八万八千八百八十六のうちの、たった一つの、優しい眉のように。

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