第2話 味噌汁と数字のあいだで

【午前】


 2025年9月6日、朝六時半。


 縁側に置いた茶碗に、朝の秋風が小波を立てた。私は市役所から届いた「外国人材支援計画〈素案〉」を、もう三度目に開いた。表紙の38,886人という数字が、薄墨のように目について離れない。岡山県が推計する「在留外国人総数」だという。私の商店街にとっては、たった十五人の“顔”があるだけなのに。


 机の横に並べたメモ用紙には、昨日の巡回で書き留めた名前が並ぶ。


 「タイ・ミン・グエン(22) ベトナム 技能実習2年目 『すみません』だけ」


 「エリック・ムンゾ(28) ケニア 特定技能 日本語検定N3」


 どの字も、私の老いた手が震えて丸くなっている。数字にして十五。38,886の何万分の一か。けれど、彼らが靴音を響かせた石畳は、私の父が戦後に埋めた、我が商店街の石だ。


 私は万年筆を取り、メモの余白に小さく書いた。


 「多言語対応より、挨拶が先ではないか」


【午後】


 市役所二階の会議室は、エアコンの風が冷たすぎた。窓の外では、9月の陽ざしが銀杏の葉を揺らしている。村井係長は、パソコンの画面を私に向けたまま、喋り続けた。


 「……38,886人のうち、技能実習・特定技能でおおよそ7,400人。多言語相談センターの利用率は、まだ二割に届いていません。とくにベトナム語・ミャンマー語の通訳が不足してまして」


 私は、コップの水を一口含んだ。冷えすぎて、舌が痺れる。机の端に積まれたパンフレットの束が、風もないのにぱたりと倒れた。「多文化共生推進プラン 2025~2027」の文字が、蛍光ペインのオレンジで塗られている。


 「村井さん」


 私は、できるだけ声を静かにした。


 「商店街に来ているベトナム人の娘は、日本語の『すみません』だけしか言えん。通訳センターの電話番号を渡しても、電話すらかけられん。そういう子の『数値』は、どこに入るんですか」


 村井係長は、瞬きを一回だけして、答えた。


 「数値目標に‘日本語支援受講率’を加えることで、国の補助金が──」


 その先は、耳を澄ましても聞こえなかった。私は、パンフレットの裏側に、自分の影が落ちているのを見た。四角い枠に収まりきらない、歪んだ頭が揺れている。人の温もりが、数字に変わる瞬間を、私は目の当たりにした気がした。


 「会長、何かご要望があれば、遠慮なく」


 私は、杖をついて立ち上がった。膝がきしむ。


 「商店街の灯りは、数値じゃ点りません。よろしくお願いします」


 廊下へ出ると、エレベーターホールのベンチで、母国語で電話する男がいた。ベトナム語らしい。母音が途切れるたび、息を呑む音が響く。私は、杖の先で床を軽く叩いた。こだまのように、自分の胸に音が返る。


【夕方】


 商店街「さくら通り」は、夕映えが早かった。秋分を三週間後に控え、陽はもう五時半で瓦屋根の向こうに落ちていた。鈴木副会長が、私の一つ後ろを歩きながら喋った。


 「あの子ら、また工場の残業で八時過ぎだそうですよ。昨日も、コンビニの前で転がって寝ておった」


 私は、歩みを止めて、空を見上げた。古いネオン管の「呉服 田島」の文字が、蛍のように明滅している。昔、父が「商店街の明かりは、人の帰りを照らす灯台だ」と言ったのを思い出す。


 「鈴木さん」


 私は、杖で石畳を軽く描いた。


 「あの子らの背中が、俺たちの若き日の商店街に似ておる。空いてた店舗を眺めながら、明日はどうしよう、って歩いてた頃の俺たちに」


 鈴木は、ハンカチで首の汗を拭った。白い布に、日焼けした肌の色が移る。


 「会長は、甘いですな。けど……まあ、灯りを消さんところが、商店街の意地、ですか」


 二人で、さくら通りの端にある「ベトナム食材 さくら商店」の前に立った。まだ扉は閉まっている。だが、レジの奥に置かれた電気釜から、ほのかにフォーの香りが漏れていた。私は、目を閉じて深呼吸した。魚醤と生姜が、風に乗って鼻先をくすぐる。日本の秋と、熱帯の記憶が、同時に胸を通り抜けた。


 「鈴木さん、来週の朝市に、彼らを誘ってみませんか。味噌汁、振る舞いますから」


 「……会長の味噌汁は、塩辛いんでしたっけ」


 「薄めりゃあ、みんなで飲める」


 二人の影が、茜色の石畳に長く伸びた。影の先は、もう夜の帷に溶けかかっている。


【夜】


 自宅の台所では、節子が、かつおぶしを削っていた。私が市役所でもらった「多言語対応リーフレット」を、茶箪笥の引き出しに片付けながら話した。


 「村井さん、数字に逃げるばっかりじゃった」


 「あなたは、逃げさせませんでしたか」


 「足が遅うてな」


 「口が、早いわ」


 節子は、小さく笑って、鍋の蓋を取った。湯気が、電灯を浴びて白く立ち昇る。味噌を溶き入れる手つきは、五十年間変わらない。けれど、今夜はどこか慎ましい。


 「隣のベトナム人家族、味噌汁くれたの。お礼に、あなたの作った‘ほうれん草のごま和え’を持ってったら、‘カイラナ’って野菜で作ってみたい、って」


 「カイラナ?」


 「ほうれん草みたいな葉。ちょっと苦いんですって。でも、‘おみそ汁は、外国でも温かい’って言ってた」


 私は、箸を置いた。湯気の向こうに、38,886という数字が、初めて「人」の輪郭を描き始めた。村井係長のパソコン画面では、決して浮かばない、細かな皺、箸の持ち方、照れ笑い。すべてが、味噌の一粒に宿る。


 「節子、ちょっと書き物をしてくる」


 私は、古い硯箱を開いた。万年筆の軸に、夜風が冷たく絡む。和紙に向かって、文字を綴る。


 ――――――――――――――――


 要望書


 商店街自治会より、市役所多文化共生推進課へ


 多言語対応の充実は結構なれど、それ以前に、商店街の灯りを共に点す「関係づくり」を、計画の冒頭に据えて頂きたく。


 数字では集計されぬ、挨拶の一つ、味噌汁の一匙、夕暮れの影の長さを、条例の目的とあわせて斟酌しんしゃくされたし。


 以上


              商店街自治会会長 本田 義郎


 ――――――――――――――――


 節子が、そっと茶を淹れた。湯気が、私の書いた文字を湿らせる。墨がにじみ、38,886の輪郭が、ゆるやかにほどけていく。


 私は、窓を開けた。九月の夜風が、さくら通りの石畳を渡ってくる。どこからか、小さな鐘の音がする。商店街の、閉店七時の合図だ。私は、杖を握りしめ、自分自身に言い聞かせた。


 灯りを消すな。


 灯りを、一人で点さない。


 風は、空いっぱいに秋を運んでいた。


 そして、私の胸のうちに、38,886の数字が、初めて息を吹いた。

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