第4話 おやつを分け合う町で

【午前】


2025年9月8日、白露を明後日に控えた朝だというのに、外はまだセミの声が張り上がっている。商店街の集会所に入ると、エアコンの涼しさよりも、川村彩の視線の方が冷たく感じられた。


「会長、38,886人ですよ」


机の上に広げた資料は、県の「外国人材等支援計画」草案。表紙の数字は、昨日と変わらない。けれど、川村の指先が震えているのは、数字のせいではない。


「外国籍の子どもたちが、給食で‘辛い’と泣いているんです。日本語で‘苦手’と言えず、ただ黙って残す。そんな子が、もう三人も転入してきました」


私は、コップの麦茶を口に運んだ。氷が溶けて、薄い緑色に透けている。まるで、私たちの言葉が、子どもたちの胸の中で溶けてしまうように。


「川村さん、‘日本語教室’の文言を、計画のどこに入れるか、今日の学校訪問で確かめてくる」


「本当ですか?」


「ああ。数字より、子どもの目を見るのが先だ」


私は、資料の余白に「日本語サポート要員 確保」と書き込んだ。インクが滲み、38,886の数字の横に、小さな涙のような染みができた。


【午後】


小学校の門をくぐると、放課後のチャイムが、どこか遠くで鳴っている。校舎の壁に描かれた「ようこそ」の文字の下に、ベトナム語で「チャオ」と書かれた紙が貼ってあった。


案内された三年生の教室では、黒板に「ありがとう」が六か国語で並んでいた。子どもたちの文字は、どれも同じ大きさで、どれも同じにじみ方をしていた。


「この子が、先月から転入したグエン君です」


担任の女性教員が、後ろの席を指差した。削りかけの鉛筆を握った男の子は、私を見ると、ぺこりと頭を下げた。前髪の下から、大きな瞳が覗いている。


「日本語、難しい?」


私が声をかけると、彼は黒板を指差した。


「ありがとう、おじいちゃん」


響きは少しずれているが、丸い笑顔がそのまま日本語になった。私の胸の奥で、何かがぽかりと溶けた。


教員が小声で囁いた。


「日本語サポートの要員、まだ一人も来てません。私たちだけでは……」


窓の外では、木犀もくせいの香りが、昼の残暑を包み込んでいる。秋の先取りのような、甘く切ない匂いだった。


【夕方】


校門を出て、商店街に面した小さな公園に立ち寄った。ブランコのきしむ音が、風と一緒に流れてくる。ベトナム人の母親が、幼い娘を抱いて、ブランコを押していた。娘の声が、風に乗って届く。


「ママ、もっと高く!」


日本語だった。母親は、こくりと頷いて、足元に置いたエコバッグから、葉っぱのようなおやつを取り出した。ピンクの団子だ。私は、思わず足を止めた。


「おじいちゃん、どうぞ」


母親が、私に一個差し出した。


「ありがとう」


私が受け取ると、娘がにっこり笑った。


「おいしいよ」


一口かじると、もち米の甘さと、塩の効いた葉の香りが、口の中で広がった。孫が小さい頃、よく一緒に食べた、あの味だった。


川村が、後ろから歩み寄ってきた。


「会長、‘日本語教室’の件、学校は予算がないそうです」


「商店街でやろう」


私は、団子の残りを口に放り込んだ。


「空き店舗を使って、夕方一時間。子どもたちに、‘ありがとう’の意味を教えるんだ」


「商店街が?」


「商店街が、子どもを育てる。それが、38,886人の意味だろうて」


風が、コリアンダーの香りと一緒に、ブランコを揺らした。娘の笑い声が、夕空に吸い込まれていく。雲が高く、星が一つ、また一つと灯り始めた。


【夜】


自宅の縁側では、節子が、夕刊を広げていた。私が団子の包みを見せると、彼女は小さく鼻を鳴らした。


「隣のベトナム人家族、お見舞いに来てくれたのよ。味噌汁のお礼だって。子どもが、‘おいしい’って笑ったわ」


「孫も、ベトナム語で‘カムオン’を覚えたそうだ」


「外国でも、子どもはおやつが好き。笑顔も、同じ」


私は、硯箱を開けた。万年筆の軸が、蛍光灯を受けて黒く光る。和紙に向かって、文字を綴る。


――――――――――――――――


要望書(追記)


商店街自治会より、市役所子ども未来課へ


38,886人という数字は、商店街の子どもたちが手をつなぐ「38,886の笑顔」です。


多言語対応より、まず「おやつを分け合う関係」から始めてください。


空き店舗を活用した放課後日本語サポートの場所として、商店街が協力いたします。


以上


               商店街自治会会長 本田 義郎


――――――――――――――――


節子が、茶を淹れた。湯気が、私の書いた文字を湿らせる。墨がにじみ、38,886の数字の輪郭が、ゆるやかにほどけていく。


まるで、子どもたちの笑顔のように、どこまでも丸く、どこまでも温かく。


私は、縁側の明かりを消した。


星空が、一気に降りてきた。


三十八万八千八百八十六の星のうち、十五個が、商店街の灯りに変わった気がした。

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