第十一話 「血は湖よりも深く」

――湖の底で、車とともに漂う凛子


すでに苦しみもなく、

とても穏やかな空気が凛子の周りを流れている。


──。


今、私はどこにいるんだろう?

それすら分からない……


──。


目を開けようとするが、なぜかまぶたが鉛のように重くて開けられない。


──。


(私、いよいよ死んでしまったの?これが死後の世界なの?)



必死に目を開けようとした、そのとき――


母“楓子”の姿が見えた。


目は閉じたままなのに、なぜか「そこにいる」と確信できた。


「……お母さん?」


幻だろうか?


けれど、母の気配を感じた瞬間──閉じた瞼の向こうに、その姿がゆっくりと浮かび上がっていく。


それは、先日見た【白いワンピースの少女】だった。


「やっぱり、お母さんだったのね! カワイイ……アイドルみたい……!」

感情が抑えきれず、少し浮かれた声を出す凛子。


しかし、依然としてまぶたは開かないまま。


楓子は表情を変えぬまま凛子に歩み寄り、肩に手をかけて揺さぶり始めた。


「バカなこと言ってないで、早く目を開けなさい、凛子!」

楓子はさらに凛子を大きく揺さぶり、両手で頬を叩いたりした。


「分かってる、分かってるけど……どうしても開けられないの!」


荒ぶる声で、凛子は楓子に気持ちをぶつけた。


――私はもう、死んでるのに。


なのに、母は目を開けろと言ってくる。


思い通りにいかない身体に不甲斐なさを感じた凛子の目から、大粒の涙がこぼれた。


「──開けられないの!

……開けたくても無理なんだから!」


凛子は振り絞るように声を出した。

涙が温かく頬を伝っているのもかすかに感じるが、依然まぶたは重いまま。


「凛子、よく聞きなさい。

あなたは――死んでないわ」


「え……?」


「生きてるのよ」


――そんな、バカな!?

凛子は思わず自分の身体に手を当てて、生きている証拠を探し始める。


必死に手を動かしても、何も感じない。


まるで、自分の身体じゃないみたい。


「生きてる」気もしないが、「死んでる」気もしないのだ。


「──あなたもとうとう能力に目覚めてしまったのね」


そう言って、楓子は揺さぶる手を止めた。


そして、蒼白な顔をした凛子を、じっと見つめた。


「でも、あなたの肉体自身が限界みたい。だから早くここから出なさい。──目を覚ますの」


その言葉に、凛子の心は揺さぶられた。


――能力が現れてしまった。


ということは、近いうちに母のように“奇病”を患うか、祖母のように命を落とすだろう。


なのに、今ここで――わざわざ生き抜く意味なんてあるの?


“自分の宿命”を思うと、凛子の涙は止まらなかった。


楓子は、そんな凛子の肩を、そっと抱きしめる。


「それでも生きるの。

あなたが死ぬのはここじゃない。

──あなたは、こんなところで死んじゃダメなの」


身体の感覚はもうないはずなのに――

凛子は懐かしい母のぬくもりを、確かに感じた。


「──お母さん……私のことなんかもう覚えてないんでしょう?」


父から聞いたことがある。

身体が巻き戻ると、記憶も消えてしまうことがあるって。


ならば、私を宿す前に戻ってしまった母は、かつて自分と一緒に過ごしたことなど、もう覚えてないかもしれない――


凛子は、楓子から視線をそっと逸らした。

もし本当に覚えてなかったら——そう思うと、怖くて顔が上げられなかった。


楓子は、伏せた凛子の顔をそっと包み込み、抱く腕にギュッと力を込めた。


「忘れてないわ――忘れないようにしたわ。 あなただけは……」


楓子は、肉体の巻き戻しとともに、記憶が薄れていくのを感じ、娘を思う気持ちを毎朝毎夜、念を込めて、何年も綴り続けていたのだ。


一日も欠かさず――。


「しっかり覚えてるわ。あなたを産んだ時のことも――」


凛子はその言葉を聞くと、安心したように力の抜けた表情を浮かべた。



月ヶ瀬はトランと共に、駆け込むように『加恋』に向かった。


そして勢いよく店のドアを開けると大勢いる客をかき分け「ある人物」を探そうとした。


――それは店長である男だ。


月ヶ瀬の荒っぽい言動に女性客たちがざわつきだしたその時、奥から男が歩いてきた。


異様な雰囲気に驚きも躊躇もせず、月ヶ瀬たちをじっと見た。


「これはこれは刑事さん、今日はいかがされたんですか?」


「あんたのことは全部調べあげてる。署までと言いたいところだけど、今はもう時間がない。ドマーニの占い師がいなくなった。あんた何か知ってるだろ?」


月ヶ瀬は、男が必ず何かを知っているという確信があった。


男は「シルク」の幹部だったのだ。


今、凛子に何か異変があったとすると、思いつくのは「加恋」か「シルク」しかなかった。


それと──


「あんた、おそらく吉野とやりあった時にできた打撲があるだろ? それが証拠さ」


月ヶ瀬の言葉を聞いて、男は赤黒くなった手の甲を撫でながら鼻で笑った。


「何がおかしい?」


「いや、ちょっと油断したなと思いましてね。下手すりゃ虫ケラの位置まで下がってしまう」


月ヶ瀬は男の言葉に顔をしかめて「──何のことだ?」と、再度問うた。


──男の思考がまったく読めない。


月ヶ瀬は徐々に焦り出した。


「何も吐かないなら、今すぐここを封鎖して、ここにいる全員を署まで連行するぞ!」


その瞬間、その場にいた女性客らが叫びだし、何人かは急いで店の外へ出て逃げていった。


そんな状況になっても男は眉ひとつ動かさず、奥の時計をちらりと見て時間を確かめた。


「ここで油を売るよりも早くシルクの方へ訪ねられた方がいいですよ。きっとその占い師さんの行方も分かります」


そのとき、店の外に複数のパトカーが到着する。

車内には血相を変えた吉野が急いで無線機を取り出し月ヶ瀬に連絡していた。


店内で、月ヶ瀬が持っている無線機が鳴り響く。

そのとき、トランが店の外を確認し「吉野さんたちが来たよ!」といって、月ヶ瀬のスーツの背中あたりをぐいと掴んで引き寄せた。


男の発言にさらなる不信感を抱く月ヶ瀬だったが、今は凛子を早く見つけることが優先だと考え、その場を離れた。


そして、月ヶ瀬を乗せたパトカーの音が聞こえなくなると、男はすぐに電話のプッシュフォンを押し、相手が出ると話し出した。


「虫けらどもが暴走してるみたいです。様子を見ますか?」



──その頃、インド式瞑想スクール「SilkTree」


白く曇った薄暗い部屋。信者たちは輪になって座り、無表情のままマントラを唱えている。


その静寂を破ったのは、廊下から響く「ドタドタドタッ!」という複数の重い足音。

「困りますッ!!」という受付の叫び声とともにその足音は大きくなる――


――バンッ!


「この部屋かっ!!」


月ヶ瀬はドアを蹴り開け、部屋に飛び込んだ。

後ろには吉野率いる数人の警官と、やや気圧されながらついてきたトラン。


月ヶ瀬はざわめく信者たちを乱暴にかき分け、白装束の『教祖の女=占い師』の方へ一直線。


一気に距離を詰め、銃を抜きざまに女の額に突きつける。


「凛子はどこだっ! 今すぐ吐けっ!」


あまりの迫力にその場の空気が凍りついた。


その様子に目を丸くしたトランが、小さくつぶやく。

「え、いつのまに呼び捨て……?」


あまりにも激しい月ヶ瀬の気迫に、吉野たちがあわてて取り囲み、「何やってるの!やりすぎよっ!」と声を上げる。


しかし、月ヶ瀬は怒りに突き動かされ、まるで理性が吹き飛んでいるかのように、視界は一点に釘付け。

周りの声も届かない。


「早く言えっ!! 凛子をどこにやった!!」


月ヶ瀬の怒声に、教祖の女は一瞬のけぞるが、すぐに冷徹な表情に戻り、壁の時計に目をやった。


しかし、口を閉ざしたまま、一言も漏らそうとしない。目を伏せた女の様子に、月ヶ瀬や吉野らが苛立ちを覚える。


その時、異様な気配を漂わせた“白いワンピースの女”が、フラフラと揺れながら部屋に入ってきた。


「あれー?みなさん、お揃いで」


酒にでも酔っているのか、呂律も回ってない。足元はおぼつかず、瞳孔は開ききっていた。


吉野はすぐさまその異常な様子を察知し、「こっちいらっしゃい、あなたには検査してもらうわ」と、警戒心を込めて彼女の背中に手をあてた。


すると、女はその手を振り払い、突然ヒステリックに叫んだ。


「箱根よ、箱根! あの占い師がいるのは芦ノ湖でしょうっ!」


その言葉に、教祖の女は鋭く睨みつけた。


「あなたって人は……ほんと、残念な人ねっ。」


「──えらそうにしないで! ……もう耐えられない! シルクに入ったのは私のほうが先なのに!」


そして、白いワンピースの女は、壊れた人形のように一定のリズムで笑い続けた。


月ヶ瀬は、すぐさま教祖の女に詰め寄る。


「凛子は──芦ノ湖にいるのかっ!? 言え!」


「ふん……どうせ、もう間に合いやしないわ。」


その言葉を聞いた瞬間、月ヶ瀬の怒りが爆発した。

銃口をグッと女の額に押しつけると、室内に小さな悲鳴が漏れた。


女の頭を乱暴に引き上げながら、月ヶ瀬は吐き捨てるように言った。


「……いいから言え、凛子はどこだ!」


額に突きつけた銃口がわずかに震えている。


月ヶ瀬の怒りの底にあったのは、凛子を守れなかった自分への、激しい悔いだった。



──横浜から車で1時間ほど。たどり着いたのは『箱根・芦ノ湖』


観光地とはいえ、山側の道沿いはひっそりとしており、特に夜になると人の気配はまったく感じられない。


鬱蒼と茂る森を抜けた先――霧がかった湖が、静かに姿を現す。


そして、その霧をかき分けるように、数台の警察車両が音を響かせながら到着した。


そのうちの一台から降りた月ヶ瀬は、手錠をかけられた女を睨みながら、湖の様子を見渡した。


「暗い……灯りを集めろ!」


月ヶ瀬の合図で、車両のヘッドライトが一斉に湖面を照らす。


「なかなか見えにくいわね……」


吉野はそう言って、懐中電灯を片手に目を細めて海面を眺めた。


「おまわりさん、あそこ!」


トランが指差した先――

水面に、車の一部と見られる残骸が浮いていた。


「ねーさん……」


トランが崩れるように、膝をつく。


その場に、何も言えない静けさが流れた。


やがて月ヶ瀬はトランの横を無言で通り過ぎた。


そして、一歩、また一歩と、迷いなく湖へと歩み進めていく。


「ちょっと、月ヶ瀬警部!ダメよ!戻ってきて!それ以上先に進んだら危険よっ!」


そう叫ぶ吉野の声も届かず、吉野は思わず下打ちをする。


他の警官たちがどよめく中、その様子を見ていた囚われている女が激しく叫んだ。


「──無駄よ! もう沈んでから3時間以上経ってるのよ!

いくら“御蔭池家”の人間だからって……もう、生きてるはずないわ!」


その言葉に、月ヶ瀬がピタリと足を止めた。

そして、ゆっくりと、女の方へ振り返る。


「……“御蔭池家”の人間だって?」


その瞬間、月ヶ瀬の中で――

凛子に対するすべての不確かな波が、急に収束していくのを感じた。

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