第十二話・最終章 「水の夜 闇の朝」
──箱根・芦ノ湖
月ヶ瀬はその言葉に一瞬動きを止めたが、すぐに我に返り、水中に浮かぶ車の破片付近を目指して泳ぎ出した。
森の茂みが湖をいっそう暗く染め、水中では自分の荒い息づかいしか響いてこない。
その濁った水面に顔を沈め、必死に目を開ける。
(凛子……どこだ?)
ヘッドライトが照らす水面下には、わずかに車の残骸が見える。呼吸をしては、再び潜る――その繰り返し。
その様子を、トランも警官たちも心配そうに見守っていた。
そこへ、一人の警官が無線を受信し、月ヶ瀬の行動を報告すると「一時撤退」の指示が下る。
「吉野警部!本部から撤退命令がきました。どうしましょう?この距離から月ヶ瀬警部に声が届くでしょうか……?」
吉野は眉間にしわを寄せ、こめかみに手を添えてしばらく考え「無理でしょうね。あの人、聞いちゃいないもの。……一体、いつまでああして潜り続けるつもりなのかしら?」と、大きく息を吐いた。
警官たちの声が背後から響く中、トランは、遠ざかっていく月ヶ瀬の小さな背中をただ目で追っていた。
──まるで地獄のように、真っ暗で不気味な夜の湖。
肌寒い森に囲まれたその場所は、足を踏み入れるのをためらうほどの気配を放っていた。
それでも、あの人は――。
(僕には、あんなふうにねーさんを探す覚悟はあっただろうか……?)
トランは、ちくちくとささる胸の痛みを抑えながら、湖に潜り続ける月ヶ瀬の姿をじっと見つめていた。
⁂
警官のひとりが岸辺に立ち、必死に呼びかける。
「月ヶ瀬警部! もう一旦、引き上げましょう! これ以上は危険です!」
その声に、月ヶ瀬の表情が思わず歪んだ。
もう一度、もう一度……
──もう一度だけ!
そう念じながら息を深く吸い込み、再び水中に顔を沈める。
(凛子! 凛子!)
(──頼む、上がってこい……!)
何度叫んでも、声は空しく水に飲まれるだけ。
ただ黒く渦巻く水底が、視界を乱す。
「凛子……!」
──。
──。
──。
どれくらい時間が過ぎたんだろう……
──。
──ブクブクブク……
かすむ視界の渦がふっと揺らぎ――そこに、ゆっくりと目を閉じた凛子の姿が浮かび上がってきた。
「……いた!」
月ヶ瀬は必死に凛子の身体を水中から抱えて引き上げた。
ぐったりと目を閉じたままの凛子。
生きてるのか?それとも──
月ヶ瀬はそのまま凛子を連れて岸へと泳ぎ出した。
「凛子さん……!」
それを見た吉野は、目に涙を浮かべ、よろけながらも月ヶ瀬たちの方へ駆け寄った。
他の警官たちも吉野に続き、水際へと駆け寄った。そして、そのうちの一人が本部に連絡を入れた。
「車両の残骸付近、不明者発見! ただちに収容します!」
無線を終えた警官は凛子の様子を見て、目を丸くする。
「……え? ご遺体、じゃない……?」
引き上げられた凛子の顔色は蒼白で、まるでモノクロ写真のよう。
だが、彼女の胸は――かすかに動いている。
しかし、意識が戻らない。
「凛子さん!しっかりして!凛子さん」
吉野は凛子の顔をピシピシと叩きだす。
しかし、凛子はグッタリとしたままだった。
「目を覚ませ、凛子!……戻ってこい!」
月ヶ瀬は凛子の鼻をつまみ、人工呼吸を開始した。
心臓マッサージのたびに、声をかける。
「死ぬな……!早く戻ってこい、凛子!」
「凛子さんっ!」
「ねーさんっ!……ねーさんっ!!」
トランの嗚咽混じりの叫び声が響く。
凛子!
凛子……!
……もう無駄かもしれない、誰もがそう思った――そのとき。
──
──
──。
凛子が、わずかにまぶたを動かし、口を開いた。
「……あ……た……」
虫の声のようにか細く、凛子は言葉を紡いだ。
「え? 何て……?」
そう言って月ヶ瀬が凛子の口元に耳を寄せると、凛子は少し困った顔をしながら口を動かす。
「……こん……なときに名前で……呼ぶなんて、反則──」
その瞬間、湖の水面を覆っていた黒い蝶たちが、ふわりと宙を舞い、空高く消えていった。
まるで、凛子の目覚めを見届けていたかのように。
そんな凛子の生還を遠目に見ていた“女”は、肩を震わせながら、静かに言い放った。
「化け物……」
⁂
──数日後、港町の海岸通り
凛子は芝生に腰を下ろし、グラデーションに染まりゆく空を眺めながら、心地良い風を感じていた。
「体は、もう大丈夫か?」
月ヶ瀬が声をかけてきて、隣に腰を下ろす。
「ええ、もうすっかり」
「そうか。なら良かった。……でも無理するなよ? なんせあんたは――」
そう言って月ヶ瀬は、言葉を飲み込むように口を閉ざした。
凛子が湖の底にいた時間は、正確には分からない。
警察でも騒ぎにはなったが、最終的には「どこかで浮いてでもいたのだろう」と処理された。
だが月ヶ瀬は見ていた。確かに、深い水底から凛子が現れたのを。
――それは、彼だけの秘密
「“あんた”じゃなくて、“凛子”ですよね? ちゃんと名前で呼んでくれてたじゃないですか」
「あれ……本当に聞こえてたのか?──」
今さら何を言われても不思議じゃない。
“ただ者じゃない”
それだけは、もう十分にわかっている。
月ヶ瀬の濁した言葉に、凛子は何かを察したように微笑んだ。
そして視線を海に向け、ゆっくりと口を開く。
「前田の件だがな、ミゾグチ自身が前田のことを『いざって時の頼れる金づる』と周囲に話していたようだ。前田が、ミゾグチを自分の息子だと分かっていたかどうか、そしてミゾグチがそれを知ってどう感じていたかは……もう、想像に委ねるしかないな」
そう言うと月ヶ瀬は、スーツの内ポケットからタロットカードを数枚取り出した。
「これ、ミゾグチの荷物から。こんなものしか持ちだせなかったけど」
そのカードは以前もらった、ひかるの遺品であるタロットカードと同じデザインのものだった。
「あのカード、あれで全部じゃなかったんだ……」
凛子がカードを受け取ると、ピリッとした衝撃とともに脳裏に膨大なイメージが流れてきた。
――これは“カード”の記憶かしら?
タロットの絵柄を気に行ったミゾグチさんのお母さんがひかるさんにカードをせびるシーン。
少年のひかるさんは、ほのかにミゾグチさんの面影と重なる。
自分の性との葛藤、出会いと別れ……
そして、ミゾグチさんを一目で自分の息子だと気づいたひかるさんは自身の正体を知らせることなく、どんなにけむたがられても、ずっと彼を近くで見守ってたのね。
そんなふうにずっと見てたからこそ、ミゾグチさんの死に疑問を持たずにいられなかった。
「ひかるさん……やっぱり寂しいよ……」
凛子の目にあふれんばかりの涙がたまっているのを横目で見た月ヶ瀬は、ためらいながらも重い口を開く。
「……そのカードの意味は?」
凛子は月ヶ瀬の問いに、下を向いていた顔を勢いよく上げると、目元をゴシゴシと拭い、カードの絵柄に目を凝らした。
カードは三枚。
〈世界〉〈女帝〉〈太陽〉
凛子はそれらを手に取り、引いたり近づけたりしながら思考を巡らせた。
「ああ……そういうことか」
一枚を抜き取り、月ヶ瀬の前に差し出す。
「この〈世界〉のカード、見てください。どう見えます?」
「どうって……女の人が、布一枚まとって踊ってるようにしか……」
「踊ってるって! あははははっ!」
鈴を転がすような笑い声が心地よく、月ヶ瀬もつられて口元をゆるめた。
「俺らみたいな占い素人は、その程度の解釈しかできないと思うぞ?」
凛子は胸に手を当て、笑いを鎮めると、ぽつりと話し出した。
「そうね……ごめんなさい。──でもね、この人、実は“両性具有”って言われてるんです」
そう言って、残りのカードを並べた。
「〈女帝〉は母性。〈太陽〉は子ども。……そう考えると──」
凛子の言葉が途切れる。
月ヶ瀬が静かに彼女を見つめた。
凛子もゆっくりと顔を上げる。
二人の視線が、静かに重なった。
「……ひとつの家族、みたいに見えませんか?」
──ミゾグチがどこまで父親のことを知っていたか、分からない。
ただ、カードを見るとそこにはひとつの“家族のカタチ”が見える。
「……ミゾグチは父親のこと何か知ってたんだろうか?」
「それは分かりません。これからもきっと」
その“真実”は、水蒸気のように消えてしまった。
凛子は再び顔を腕にうずめて、強く目を閉じた。
⁂
落ちていく夕日を眺めながら、凛子はずっと気になっていたことを月ヶ瀬に尋ねた。
「あの人たちの調査は、もう終わったんですか?」
月ヶ瀬は短く息を吐いた。
「ああ……不自然な点は多かったが、表向きは“決着”ってことになった」
“SilkTreeの教祖の女”は、移送中に突然苦しみ出して、そのまま息を引き取ったという。
毒物も薬物も検出されず、死因は急性心臓発作。
同じ夜、スクールの一室でも“白いワンピースの女”が原因不明の発作で亡くなっていた。
検出された薬物反応は異常値を示し、覚せい剤を含む複数の成分が混じり合っていた。
そして、ひかるを轢いた車はレンタカーで、調べた結果、ハンドルに微量の覚せい剤が付着してたそうだ。
月ヶ瀬は小さくうなずいた。
「あの女、薬に手を出しただけじゃなく、人まで轢いてたなんてな」
凛子は言葉を失った。
夕日の赤が、静かに二人を染めていく。
「『加恋』も、“SilkTree”も、もう跡形もない。……あの店長も、姿を消した」
月ヶ瀬の声は、どこか遠くを見ているようだった。
「もう少し調べたい気持ちはあるが……何も出てこないだろうな」
そう言って、彼は肩をすくめた。
少し冷たい風が、二人の間をすり抜けていった。
「──“SilkTree”はきっとまた復活するでしょうね」
「そうだな。ま、そん時はまた妙な動きしないか見張るだけさ」
凛子にとっても、これで終わりではない。
自分が命を狙われたのも、きっとこれまでの事件の延長線上にあると確信する。
「今回は、何とか山を登りきれたのかしら?それともまだ途中なのかしら……?」
凛子は、かすれるような声を漏らす。
その言葉に、月ヶ瀬が凛子を見ると、凛子はすでに彼を見つめていた。
「もう知ってますよね?──私が御蔭池の人間だって」
「ああ……」
「──ですよね……気持ち悪いですか?」
「は? 思うかよ」
「でも、私――」
あのとき、何時間も水に浸かっていたせいか、凛子の皮膚は長いあいだ柔らかくふやけ、特に手はしばらく元に戻らなかった。
吉野さんはマッサージクリームを持って何度か店を尋ねてくれて、優しく塗ってくれた。
トランはその手をずいぶん気にかけてくれて、見かけるとコーヒーを入れるのさえも手伝ってくれた。
そういえば、トラン……。
少し大人びた気がする。
男の人っていつ大人になるか分からないものね。
そして、今回のこと、お父さんに全て話したら、泣いちゃった……。これからはちゃんと親孝行しなきゃね。
──あと、お母さん。
凛子は落ち着いてから、陽子に母・楓子のことを聞いたのだ。
どうやら、凛子が湖に沈んでいた間、楓子は瞑想中だったらしく、その途中で倒れ込んでしまったそうだ。
──水を吐いて
その後、療養して体調は元に戻ったらしい。
(お母さん、助けてくれてありがとう)
──。
「生きていてくれて良かった。ただ、それだけさ」
月ヶ瀬は少し照れたように笑い、腕時計に目をやった。
「もう五時過ぎか。……飯でも食いに行くか?」
海を見ながらそう話す月ヶ瀬に、凛子はとびきりの笑顔で答えた。
「行きます! もちろん、奢りですよね!?」
⁂
──高層ビルの最上階
僧は、東京の夜景のきらめく電飾の街を見下ろしながら凛子の写真を手に取って、強く握り潰す。
「もう一人の血筋も絡み合ってきたか……」
そうつぶやいた瞬間、ドアの方で小さく音がした。
振り返ると、すでにスーツ姿の女が無言で立っていた。
そこにいたのは
“吉野”だった。
僧は「なんだ、お前か」と言うと再び窓の方へ目線を向け、低い声でいった。
「そろそろ“次”の時代が来るだろう」
窓辺には、黒い蝶が数匹、静かにとまっている。
そこに“白い煙”が押し寄せ、黒い蝶にまとわりだした。
やがてそれらは、闇夜へと舞いあがり――東京の空へと広がっていった。
⁂
月ヶ瀬と凛子がほがらかに話しながら海岸沿いを歩いていた――そのとき。
“あの低い声”が、再び凛子の脳裏をかすめた。
「──次はお前の番だ」
その瞬間、身体中の血流がどくどくと勢いよく流れていくのを感じる凛子。
月ヶ瀬は、凛子の笑顔が消えたのに気づき、声をかけようとした。
──すぐに笑顔に戻る凛子。
……大丈夫。覚悟なら、もうできてる。
──でも、それまでは、
この穏やかな空気を感じていたい。
そう決意した凛子は、肩にとまっていた“黒い蝶”を撫でて微笑んだ。
占い師凛々の奇妙な事件簿(壱) 〜港町中華街、宿命と闇の記録〜 宝田あかり @Akari-T
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