第十話 「真実は水の底」
車は重力に引かれるように、どんどん深い湖の底へと沈んでいく。
凛子は絡まったシートベルトをなんとか外し、座席の頭上部分にあるヘッドレストを取りはずして、力いっぱい窓ガラスを叩きはじめた。
――沈む寸前、凛子は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
多少は息も持つはず――そう思っていたが……
もう、ガラスを叩く手にも力が入らない――
凛子の思考は緩やかに低下しはじめた。
今はもう、ただ水の音だけが頭の中に響く……
──。
そしてその音さえも、次第に遠のいていく――
凛子の動きは完全に止まり、ただ水の流れに身をゆだねるだけだった。
意識が少しずつ遠のいていく中で、凛子の脳裏には、さまざまな映像が浮かびはじめた。
──。
――これが、命が尽きる前に見るという“走馬灯”なのね。
映像は、母の胎内に宿った瞬間から始まった。
両親と過ごした穏やかな幼少期。
母がいなくなり、あまり周りと関わらなくなった学生時代。
田辺先生の本に出会い、夢中になって“占い”を学び――
高校を卒業すると、すぐに叔母が作ったドマーニで占い師として働きはじめた。
トランや職場の占い師たち、そしてひかるさんやなるみさん――たくさんのお客さんたちと笑い合った日々。
……楽しかったなあ。
私、幸せだったんだな。
……お父さん、一人で大丈夫かな。
悲しませちゃうね……ごめんなさい。
──。
ふと月ヶ瀬と吉野の顔が思い浮かぶ。
……吉野さん、心配するだろうなあ。
私、やっぱりあんなふうに大人っぽくなれないまま逝くのね。
──あと
──。
──。
月ヶ瀬の顔を再び思い浮かべると胸がいっぱいになった。
……ちょっと変なおじさんだったけど、
死ぬ前に、“初めて”をたくさんくれてありがとう。
──。
――ああ、こんなことなら。
こんなことなら、こんなところで死ぬくらいなら――
一度くらい、恋をしておけばよかった。
恋をして、できればデートとかもして、
誰かを思いっきり愛してみたかった──。
残念だな……。
──。
そして凛子の思いも虚しく、
車は、さらに深い湖の底へ沈んでいった――
⁂
──夕暮れどきのドマーニ
午後の陽が傾きはじめ、ビルの影が細長く路地を這っていった。
「ねえ、凛々ねーさん、どこ?」
トランがそう言って、店先にいる店長に声をかけた。
「凛々さんなら、お昼からまだ戻ってませんよ」
それを聞いたトランは、時計をちらりと見た。
時計の針は、まもなく午後五時を指そうとしていた。
「いや、いくらなんでも遅すぎるでしょ。でもねーさんが黙って仕事サボるなんて考えられないし……」
トランは落ち着かない様子で、入口の前を何度も行ったり来たりした。
時計を見ては窓の外をのぞき、またカウンターの前へ戻る。その姿に、店長も少し呆れ顔。
そんな中、昼頃に顔を出していた陽子が再び入ってきた。
トランも店長も、反射的に彼女の方へ顔を向けるが、凛子ではなかったため、わずかに落胆する。
「どうしたの? 誰か待ってるのかしら?」
「凛々ねーさんが、お昼から戻ってこないんですよ。いつもなら、2時に出ても3時には帰ってくるのに……」
トランがそう言うと、陽子の顔色が変わった。
「……何ですって!?」
陽子は、そのまま外へ飛び出すと、タクシーを止めようと、勢いよく手をあげた。
(嫌な予感がするわ。背筋が凍るほどに……)
タクシーを捕まえながらも、陽子は家系に伝わる呪いについて思いを巡らせる。
──もしも、すでに呪いが発動していたら……?
凛子には高い霊能力を持つ予兆がまだない。もしかしたら、呪いは免れるかもしれない。そうなれば、このまま一般の女性として天寿を全うすることも不可能ではないはずだ。
「凛子には手を出させないわ!絶対に……!」
陽子は捕まらないタクシーに苛立ち、「ああ、もうっ!」と履いていたハイヒールで地面を蹴りつけた。
ちょうどそのとき、月ヶ瀬が現れた。
どうやら、凛子に会いに来たらしい。
「あっ……来るなって電話するの、忘れてたわ」
陽子が小さくつぶやく。
月ヶ瀬はきょとんとした顔で、軽く会釈した。
陽子は、そんな“何も知らないような顔”をした月ヶ瀬の元へ行き、勢いよく襟元をつかんだ。
月ヶ瀬は戸惑ったようにまばたきを繰り返し、陽子の剣幕にたじろいた。
「あのね、刑事さん。“闇”に深入りするのは、この世の“禁忌”よ――知らなかった?」
「……え?」
「凛子がいなくなったの。次にあなたがすべきこと、わかるわよね?」
そう言って、陽子は月ヶ瀬の襟元から手を離した。
次の瞬間、月ヶ瀬はあわててドマーニに入り、トランたちに事情を聞きはじめた。
陽子はその様子を、ガラス越しに確認すると、止まったタクシーに乗り込んで走り去る。
行き先は――御蔭池家
⁂
高層ビルの巨大な会場。
外界から完全に遮断されたその一室には、低くうねるような声が満ちていた。
白布のようなローブを頭からつま先までまとった者たちが、何百人と並び、まるで魂を抜かれたかのように正座している。
そして、空気を切り裂くように力強いマントラの声が響き渡っていた。
最前列――
壇上にただひとり立つ白髪の僧は、目を閉じたまま、わずかに口元を動かしている。
そのとき――
集団の一人が、何かを払うような仕草を見せた。
次の瞬間、手の動きが急に大きくなり、
「うわあーーッ!」と叫びながら立ち上がり、狂ったように手を振り回し始めた。
黒い蝶――
黒い蝶の群れが、その男を取り囲むように舞い始めた。
その黒煙のような蝶の群れは次第に数を増し、やがて部屋中に広がっていき、その場にいた人々を襲い始める。
パニックになった人々は、叫び声をあげながら必死に蝶を払い続けた。
壇上の僧のもとへ、側近のリーダー格らしき男が慌てて駆け寄る。
目につくほど長い前髪の男。
その男こそ『加恋』の店長である。
「宗主様、これは……」
直後、蝶の群れは男にも容赦なく襲いかかった。
そして、一匹の蝶がふわりと壇上の僧の袖に止まる。
僧は静かにその蝶をつかみとり、手の平を開いた。
すると、蝶の翅が一枚一枚ほどけるように崩れ、黒い紙へと変わっていった。
「……なるほど、“忠告”か」
僧は黒紙を握りしめ、即座に後方の加恋の店長含む複数の側近に向かって声を荒げて言った。
「不要になった虫ケラどもは──始末しておけ!」
「はい!」
側近たちはそう返事すると同時に、その場を飛び出した。
その直後、蝶たちはバタバタと音を立てて落下し、床に触れると同時に、灰となって消えた。
やがて、騒然としていた集団は、戸惑いながらも、徐々に平静を取り戻していった。
⁂
──逗子
壮大な敷地内に、ひっそりとそびえ立つ一軒の和風屋敷がある。
それが、御蔭池本家の屋敷だ。
その一室で、赤い緋袴に身を包んだ少女がひとり静かに手を合わせていた。
やがて、静まり返った屋敷の中に、足音が響きはじめる。
足音は徐々に近づき、その少女のもとへと向かっていた。
「姉さん!」
護衛たちを押しのけるようにして、息を切らしながら駆け込んできた陽子。
そう、どこか凛子に面影があるその少女とは――凛子の母、【御蔭池楓子】だった。
「久しぶりね。ちょうど今、相手先に“式神”を送ったところよ。少しは効果あったんじゃないかしら」
楓子はそう言って、ゆっくりと陽子の方へ体を向けた。
「姉さん、凛子が……いなくなった!
もしかして、もう呪いが……」
陽子の言葉を聞いた瞬間、楓子の脳裏に凛子の姿が浮かびあがった。
──波間にただよう、湖の底の凛子。
その光景に、楓子の表情がこわばる。
「……これは、最悪の事態だわ」
楓子は愕然とし、言葉を失ったまま立ち尽くした。
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