第2話
ティロン!と、小さく通知音がなった。
黒根は大学の講義中だったこともあり、慌てて通知を切るべく、カバンからスマホを取り出した。
相手は……。
白鳥と付き合う前、そういう関係にあった男だった。
何事かと思って、ラインを開きたい衝動を抑え、黒根はスマホの電源を落としてカバンにしまった。
大学費は、父親に払ってもらっている。
黒根が高校生になる春に、父は母と離婚して、黒根は母親と共に家から追い出された。
それにもかかわらず、学費を受け持っているのは父だ。
母の浮気相手が事故死し、母もどこかに失踪して、黒根の面倒を見る人がいなくなったからだった。
大学費を払ってもらっているとは言え、黒根は実家に帰る勇気が出なかった。
空っぽなあの家に、帰りたいと思えなかった。
だから黒根は、大学生になると同時に一人暮らしを始めた。
借りたのが格安アパートと言えど、バイトをたくさん掛け持たないと住み続けるのは厳しかった。なんせ、黒根の行きたかった大学が東京にあったからだ。
バイトをたくさん掛け持っても、お金が足りなくなる時があった。そういう時は…。
まぁ、体を売った。
今連絡をよこして来たのも、そのうちの一人だ。
黒根は大学に上がってから、だいぶ心身を使って、汚れた。
三十七人と付き合って来たと言ったが、その内の二十七人は大学で得た付き合いだ。
体を使えば、大抵のことは受け入れてもらえたし、何より金がもらえた。
さらには、そのままの流れでお付き合いを申し込んでくる人もいた。
黒根は顔の作りが綺麗だったので、気に入られる事が多かったのだ。
黒根にとってそれは何よりも喜ばしい事だった。
金も貰えるし、好いてもらえる。それ以上に嬉しいことはない。
……ただ、白鳥と付き合い始めてからは、ほぼ全員と関係を切った。
彼がお坊ちゃんで、そう言うのが分かったら嫌がるかなと思ったのだ。
しかも、基本的に俺は、浮気をするタイプじゃない。
恋人がいない状態で、性行為をするだけの相手とつるむのはいいが、恋人がいるにも関わらずそう言う人と関係を持つのはダメだと思っている。
だから今は白鳥だけだ。
…なのに、なぜ。
一体この男は何の要件で俺に連絡して来たのか。恋人ができたから、もう連絡してこないでくれと、そう言って切ったはずなのにな。やはり、連絡先を削除しておくべきだった。
あまりに「消さないでくれ」と懇願するものだから…。
黒根は、大学の講義が終わると、早々に帰路に着くことにした。
大きな横断歩道を前にして、信号が赤から緑に変わる。
一斉に何十人もの人が、その道を歩き始めた。
行き交う人のほとんどが、寒い冬を越すために、丈の長いコートを着ていたり、黒い手袋を身につけたりしていた。
黒根はと言うと、そんなふうにファッションに気を使うほど金がないので、何年も前に貰った、すでに黄ばみかけて、毛玉だらけになった白いマフラーを首に巻いているだけだった。
寒いと人肌恋しくなる。こう言う時は大抵、誰かそばにいて、そのそばにいた人と体を交えていた。
…今は、白鳥がいるのに一人だ。
迷う。どうしようか。
先ほど連絡をよこしてきた男の名は、「
内容は、「久しぶり。バイト辞めちゃった知って焦ったよ。連絡するなって言われてたけど、バイトやめたんなら会えないじゃんと思って、仕方なく連絡するね。今週の土曜日、大学の予定がなければ、久しぶりに会いたいんだけど。会えない?もちろん、友達としてね。どうかな?」というものだった。
間宮とは、白鳥と付き合い始めて、すぐに関係を切っていたから、この男が、プティ・フォワイエのバイトを黒根がやめたことを知っているのが不思議だったのだ。
しかし、無視するわけにもいかない。
………いや、無視するべきなのだろうか。
なぜこのタイミングなのかと、黒根は凍てつく空気に、白いため息を吐いた。
白鳥に性行為を拒絶されて、心が寂しいときに、他人と会えば、ましてや、そういう関係だった男と会えば、怪しい雰囲気になってしまうかもしれない。
そこら辺は自制心の問題なのだろうが、今は。
……非常に不安定で、寂しい。
季節が悪い。こんなふうに寒いせいだ。
……あんなふうに白鳥が俺を拒絶したからだ。
会っても良くないか。ちょっと話すだけだ。少し。
黒根は横断歩道を渡り終えて、葉を落とした街路樹の並ぶ歩道を歩いていた。
そして、そっと、肩にかけていたカバンからスマホを取り出し、ラインを開く。
間宮のアイコンを、友達リストの友達のところから遡って探し、随分と下の方に、猫のアイコンを見つけた。
一年前からアイコンが変わっていなかった。
変わらず、猫のままだ。
…そう言えば、間宮は、随分な猫好きで、当時体の関係を持っていた時からしょっちゅう猫の写真を送ってくる男だった。
そんなことを思い出しながら、黒根は間宮のアイコンをまじまじと見つめて、思い止まった。
黒根はラインを閉じ、電話を開く。
開いて一番上にあった彼の電話番号をタップして、スマホを耳に押し当てた。
頰に触れたスマホの画面が冷たくて、思わず身震いする。
数秒ほどして、向こうから無機質な呼び出し音が聞こえて来た。
黒根はその音が、心に沁みていくのを感じた。
もう、祈る思いだった。
今、この心の寂しさを埋めてくれるのは、あいつしかいない、と、そんな気分だった。
それからしばらくして、「もしもし?」と、聞き慣れた声がした。
ポっと、冷たかった頬が温まった気がする。
「もしもし、白鳥。あの、ちょっと相談があるんだけど。」
黒根の中で、白鳥を裏切るのは、少々気が引けることなのであった。
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