第30話【母の微笑み、胸に灯るもの】
イシュラウド公爵家に戻った瞬間――
玄関ホールに、ひときわ明るい声が響き渡った。
「クレノちゃ〜ん! こっち!こっちよ! クレノちゃんのために“衣装ルーム”を作ったのよ!」
声の主は、ルミエールの母――ダルシェ・イシュラウド。
絹のドレスをひるがえし、嬉しそうに駆け寄ってくると、ためらいもなくクレノの腕を取った。
「あっ、えっ……あの……!」
戸惑う間もなく、そのまま屋敷の奥へと引きずられていく。
残されたルミエールは、眉をわずかにひそめ、あからさまにため息をついた。
「……母上!? 娘であるこの私ですら、衣装ルームなんて持っていないのですが!」
「アンタはドレス着たら倒れるでしょ! 一生、騎士服でも着てなさい!」
軽やかに、そして容赦なく切り捨てられた。
ルミエールは盛大に息を吐き、疲れたように階段へ向かう。
「……先に湯浴みしてきます」
背中を向けたままそう告げると、クレノは名残惜しげにその姿を見送った。
けれど、ダルシェに背中を押され、そのまま扉の向こうへと導かれていく。
「わ……わぁ……」
部屋の中に入った瞬間、思わず小さく声がこぼれた。
そこはまるで衣装展。
壁一面に並ぶスーツと宝飾の数々。繊細な刺繍、レース、宝石のきらめき。
今日ふたりで買ったばかりの服も、すでにハンガーに掛けられ、淡い光に照らされて輝いていた。
「……すごいですね……本当に」
「でしょう? この“衣装ルーム”、ずっと作りたかったのよ! ルミエールには却下されたけど、クレノちゃんなら絶対似合うもの!」
ダルシェが嬉しそうに語るその声に、クレノは少し戸惑いながらも微笑んだ。
けれど、ふと気になることがあり、おずおずと尋ねる。
「あの……さっき、ルミエ様がドレスを着たら“倒れる”って……どういう意味なんですか?」
ダルシェは一瞬だけ動きを止め、軽く肩をすくめて答えた。
「聞いてなかったかしら? ルミエール、昔ね……いろいろあって。ドレスを着ようとすると、ひどいフラッシュバックを起こしちゃうの」
「フラッシュ……バック……?」
クレノの脳裏をかすめたのは、あの日の光景。
街角の花屋。花を飾ろうとしたルミエールの手が、ひどく震えていた――。
「……もしかして、花を飾るのも……その“いろいろ”に含まれてるんですか?」
「まぁ、そんなところね。“令嬢らしいこと”をさせると、とたんに真っ青になって倒れちゃうのよ。見るだけなら平気みたいだけど」
冗談めかしながらも、その声の奥にはどこか影があった。
一人娘への憂いを、軽口で包み隠すような響き。
(ルミエ様……一体、どんな過去を背負っているんだろう)
クレノの胸が、きゅっと締めつけられる。
自分の知らない時間の中で、彼女がどれほどの痛みと共に生きてきたのか――考えるだけで、胸の奥が熱くなった。
ふいに、ダルシェがくすりと笑う。
「……ごめんなさいね。不出来な娘で」
「そ、そんな……!」
クレノは慌てて首を振り、真っ赤になってうつむいた。
「ルミエ様は……僕には、もったいないくらいの方です……っ。
僕なんて……どうすれば、夫として相応しい人間になれるか、そればかり考えてしまって……」
胸元で手をぎゅっと重ね、言葉を絞り出すように告げる。
その一生懸命な姿に、ダルシェは目を丸くし――そして、やさしく微笑んだ。
「……あらあら、まぁまぁ」
(この子……本気なのね)
母として、女として。
そのまっすぐな想いに胸を打たれる。
娘がまだ知らない“恋”の形を、この少年が教えてくれるのかもしれない――そんな予感がした。
「応援するわ! クレノちゃん!」
ぱんっと両手を打ち合わせると、ダルシェの顔に少女のようなきらめきが浮かぶ。
「私ね、クレノちゃんが“良い”と思うの。
あの子にはもったいないくらい可愛くて、優しくて、素直で……っ!」
勢いに押され、クレノの顔が一気に真っ赤になる。
「え、あ、あのっ……ぼ、僕……そんな……っ!」
「なぁに、遠慮なんていらないのよ?
ルミエールは本当にぶっきらぼうで、恋なんて一度もしたことがない子なの。
だからきっと、自分の気持ちに気づいても、どうしたらいいか分からなくて慌てるだけなのよ」
「き、気持ち……っ!?」
金の瞳が、大きく揺れた。
胸の奥で何かが小さく跳ねる。
その動揺を見て、ダルシェは優しく笑い、そっと肩に手を置いた。
「でもね、大丈夫。クレノちゃんがその気でいれば、あの子はきっと応えてくれるわ。
……あの子、ちゃんと“人を見る目”はあるから」
その言葉は、不思議とあたたかく響いた。
まるで“未来の約束”を見通しているかのように。
クレノは、何も言えずに唇を噛みしめた。
けれど――ゆっくりと、確かに頷いた。
胸の中に芽生えた灯火は、まだ小さくて、名前もない。
けれど、確かにそこに在った。
それは、彼が初めて自分の意思で守りたいと思った人への想い。
夕暮れの光が窓辺に差し込み、金の瞳を静かに照らす。
(ルミエ様……僕、きっと――)
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