第28話【花籠に溶ける】
ルミエールは、その姿をただ見つめていた。
花びらに触れるたび、クレノの指先は水面のさざめきのようにやわらかく揺れ、青紫の紫陽花、透きとおる白薔薇、空色のカンパニュラが、籠の中で互いの輪郭をそっと支え合っていく。
ふと、胸の奥にじんわりと熱が灯る。次の瞬間、気づけば――
「……クレノ……お前は……」
ぽろり、と。大粒の涙がひとしずく、頬を伝った。
突然の嗚咽に、クレノが驚いたように振り返る。
「ルミエ様!? ぼ、僕……なにか、いけないことを……!?」
「いや……違うんだ……違う……」
言葉が詰まり、喉が震える。声にならない想いが込み上げ――気づけばルミエールは、クレノの細い体をぎゅっと抱きしめていた。
周囲の雑踏が遠のいていく。花籠から立ちのぼる香りが、時を遡らせる。
(この花……この組み合わせ……)
回帰前、デビュタントの日。
父急逝の報せに打ちひしがれ、誰にも見せまいとした涙が堰を切った日。
――あの男、クレハ・バレンタインが、無言で投げ捨てた花束。
紫陽花、白薔薇、カンパニュラ。
蔑みの視線と共に落ちたはずの花が、なぜかあの時だけは、胸の痛みを少しだけ和らげた。
(……あれは、クレノが……?)
もし、あの花束が彼の手によって編まれていたのだとしたら。
あの日、崩れ落ちる自分を縫い止めてくれた、目に見えない糸の正体は――
(クレハじゃなかった。……クレノ、君だったんだ)
心の底にこびりついた影が、ゆっくりと、温かな水に溶ける音がした。
「これを……もらってもいいだろうか?」
涙を指で拭いながら問うと、クレノはきょとんと目を丸くし、すぐにふわりと笑う。
「え? もちろんです。……そのために、作っていたので」
その微笑みは、痛む場所を確かめながらそっと撫でる手つきに似ていた。
胸の真ん中で、ほどけた糸が静かに結び直されていく。
「クレノには……何度、命を救われたか分からない」
「僕が……? ルミエ様の……?」
「……ああ」
腕を少し緩めると、クレノは慌ててハンカチを取り出し、ルミエールの頬をそっと拭った。
指先は頼りなく細いのに、触れる所作はどこまでも確かだ。
「では……夢の中の僕は、青薔薇騎士団長のルミエール様をお守りできるくらい、強いのでしょうか?」
まっすぐな金の瞳。どこか誇らしげな響き。
ルミエールは小さく笑ってうなずく。
「……ああ。間違いなく、ね」
照れたように笑みを返したクレノは、花籠の縁を軽く整え、一度深呼吸をしてから、差し出すように両手で抱えた。
「ルミエ様。僕にも……剣術を教えてくださいませんか?」
「……剣術を?」
ほんの少し意外そうに問い返す。
クレノは頬を染めながらも、はっきりとうなずいた。
「はい。夢の中だけじゃなくて……現実でも、僕は――ルミエ様を守れるようになりたいんです」
たどたどしくも、真芯を射抜く言葉。
ルミエールは一瞬、目を見開き――不意に吹き出してしまった。
「……私を、か。……ははっ。全く、可愛いことを言うな……」
「……ダメ、でしょうか?」
俯きかけに上がる視線。金の瞳が不安に揺れる。
拒まれる未来を先に想像してしまった子どものように、声がわずかに震えた。
ルミエールはほんの刹那だけ視線を外し、すぐに首を横に振る。
「いや」
やわらかく、けれど揺るぎなく。否定ではなく、まるごと肯定する響きで。
「クレノが“やってみたい”と思ったことは、何でもやるといい。それが剣術でも、魔術でも、料理でも――なんだって構わないさ」
言葉が落ちると同時に、クレノの目がぱっと見開かれた。
「……!」
頬に淡い色が差し、唇が小さく震える。
「本当ですか……!? 本当に、教えてくださるんですか?」
期待というより、胸の奥を満たす感激。
初めて“許された願い”に触れた人の、まっさらな輝きだった。
「騎士団には私から話を通しておく。基本の立ち方や握り、足運びは――そうだな。私が直接、教えてやろう」
ぱあっと花が咲くように、笑顔が広がる。
「……! ありがとうございます! 僕……絶対、頑張ります!」
その弾む声に、張りつめていたルミエールの肩の力がすっと抜けた。
いつも鎧の内側で固く結ばれている心の紐が、彼の笑顔ひとつで、穏やかにほどけていく。
(本当に、感情が素直に顔に出る子だ)
微笑ましさを隠さず口元を緩め、ルミエールはふと空を仰いだ。
夕映えの気配が漂い始め、茜がほんのりと空を染めていく。
低くなった陽射しが石畳に金の陰影を落とし、人々の影までやさしく伸ばしていた。
「さて――」
クレノの方へ向き直り、落ち着いた声で続ける。
「そろそろ夕暮れになるな。……クレノ、最後に行きたい場所がある。付き合ってくれるか?」
一瞬、目を丸くしたクレノは、すぐに表情を緩め、嬉しそうに胸を張った。
「もちろんです! どこへでも、お供します!」
その返事に迷いはなく、透きとおる光が瞳の奥まで満ちている。
その瞳に映るのは、ルミエールただ一人――。
(――クレノ。君は私を守りたいと言ってくれたけれど……君を守ることが、私の生きる意味なんだ)
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