第27話【花の記憶、揺らぐ心】

午後の買い物を終え、レストランで昼食を取った二人は、

人通りの増えた王都の中央通りを並んで歩いていた。


石畳の通り沿いには、季節の飴細工や新作の香水、

手織りのスカーフなどが並び、

店先からは貴族夫人たちの笑い声がやわらかに響いている。

空には穏やかな雲が流れ、街はまるで絵画のように穏やかだった。


「ルミエ様が選んでくださったものは、どれも……本当に美味しかったです」


ふいに、隣から穏やかな声が届く。

クレノが微笑みながら、昼食に食べたサーモンのパイ包みを思い出すように目を細めていた。

その表情があまりにも幸せそうで、ルミエールは思わずくすりと笑う。


「そうか。それは良かった。……けどな、これからは自分の“好きな味”を、少しずつ探していくといい」


冗談めかした声の奥に、どこか真剣な響きがあった。

それは、誰かに生きる楽しみを思い出してほしいと願う人の声。


「……はい」

クレノは小さくうなずき、歩みをゆるめた。

(でも……ルミエ様が嬉しそうにしていると、それだけで何倍も美味しく感じるのに)

その言葉は胸の中にしまい込まれたまま、

ふと道の先――何やら人だかりができているのに気づく。


「……あれは?」


「どうした? あれが気になるのか?」


ルミエールが視線を向けると、

広場の一角、花屋の前で数人の令嬢たちがバスケットに花を挿し込んで飾り付けをしていた。

淡い色の花弁が風に揺れ、香りが柔らかく流れる。

小さなイベントとして、通りは小さな賑わいに包まれていた。


「は、はい……あの、ただ……人が多くて。何をしているのか……気になってしまって……」


少し恥ずかしそうに視線を伏せるクレノ。

ルミエールは微笑み、穏やかに言う。


「なるほど。行ってみるか」


その一言で、クレノの表情がぱっと明るくなる。

だが――その瞬間。


「まあ! おふたりも、いかがですか?」


花屋の女主人が、快活な笑みで声をかけてきた。

ふくよかな腕には、花で編んだ見事な花冠。

陽光の中で花びらがきらめき、通りすがる人までもが思わず目を止める。


「お好きなお花を選んで、バスケットに挿してみてくださいな。簡単ですから」


差し出されたバスケット。

ルミエールは少し驚いたように目を見開いた。


「え……私が?」


半ば戸惑いながらも、右手を伸ばして取ろうとした――その瞬間。


ふわりと鼻をかすめた花の香り。

淡い花弁の色が視界に溶け込み、

脳裏の奥で、何かが弾けた。


(……あ)


――花。

絢爛な社交の夜会。

微笑む令嬢たち。

優雅さを競うように飾られたブーケと、

背後に忍び寄る、冷たい声。


『――嬲ってやる。お前が壊した“二年間”を、その身体で償わせてやる』


声が響く。

血の匂い。

紅い花が散る。

焼けつく痛み。

闇の中で崩れ落ちる自分の身体。


そのとき、抱きかかえてくれた白髪の少年の腕。

燃え上がる光の中で、彼が微笑んで消えていった。


――花弁の赤が、炎の色に変わる。


「……っ」


バスケットを持つ指が震えた。

血の気が引き、呼吸が乱れる。

視界の端が暗く染まり、耳の奥で何かが軋むように痛む。

周囲の音が遠のいていく。

花の香りが、鉄の匂いに変わっていく。


(やめて……もう、やめて……)


立っていることすら不確かになりかけたその時――


「ルミエ様……?」


静かで、やさしい声。

その一言で、世界が少しだけ現実へと引き戻された。


クレノの手が、そっと彼女の手に重ねられていた。

細くて、温かくて、ひどく慎重な触れ方。

けれど、その温度が確かに“今”へと導いてくれた。


「……僕が、飾り付けても……いいですか?」


掠れた声に、ルミエールはゆっくり顔を上げる。

クレノがまっすぐに見つめていた。

その瞳には、恐れも戸惑いもなく、ただひとつの優しさだけが宿っていた。


「……あ、ああ……頼む」


わずかに震えながらも、そう答える。

クレノは静かに頷き、真剣な眼差しで花籠へと向き直った。


賑やかな広場の片隅。

その中で、彼の世界だけがひどく静かだった。


まず手に取ったのは、雨に濡れたような淡い青紫の紫陽花。

次に、雪のように透き通った純白の薔薇。

最後に選んだのは、空の色を宿したような、優しい青のカンパニュラ。


どれも、どこか儚げで、それでいて確かな存在を放っていた。


クレノは、それらを一つひとつ、まるで誰かの傷を癒すように――

あるいは、自分自身の痛みを受け止めるように――

丁寧に、慎重に、花籠へと挿していく。


ルミエールは、その姿をただ見つめる。

(……私は……もう、令嬢には戻れない)


かつての自分。

社交と笑顔に生きた、偽りの花。

すべてを失い、血と炎の中で終わった“悪女”の人生。


けれど今――。

目の前の青年が編む花は、どんな貴族の花束よりも美しかった。


その温もりに、壊れた心のどこかが、静かにほぐれていくのを感じる。

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