第16話【やさしさの境界線】
最初の課題は、立ち居振る舞いだった。
足先をわずかに開き、背筋を一本の糸で天へと引かれるように立つ。
呼吸を胸の奥で整え、視線をまっすぐに――けれど、決して相手を脅かさないように。
「会釈は、角度が言葉を語ります。」
クィナーの静かな声が響く。
「深すぎれば卑屈、浅すぎれば無礼。大切なのは“等しく”という心です。」
クレノは頷き、小さく息を吐いた。
鏡に映る自分の姿が、ほんの少しだけ“人の形”を取り戻していく気がする。
その背後でロニが穏やかに微笑み、正しい姿勢へと指先で軽く導いた。
「そうです。足の重心を少し前へ。はい、そのまま――とても綺麗です。」
間違えるたびに、クレノの肩が小さくすぼまり、
正しくできた瞬間だけ、胸がほのかに広がる。
その変化を見逃さぬように、クィナーは穏やかに褒め、ロニは静かに頷いた。
「今の角度は、完璧です。」
「語尾を半音だけ落としましょう。――ええ、今のが“安心の音”ですよ。」
そう言われた瞬間、クレノの頬がふっとゆるむ。
長い間、息を潜めるように過ごしてきた少年にとって、
その“褒められる”という行為が、どれほど温かいものかを、
ルミエールがいたならきっと気づいていただろう。
窓の外では、風がやわらかく庭を渡り、
青葉のざわめきが穏やかな学びの音に寄り添っていた。
昼を知らせる鐘が遠くで鳴る頃、
クレノの掌には小さな汗がにじみ、けれどその顔には確かな充足が宿っていた。
「……ぼく、挨拶が、できました……?」
その声は小さく震えていたが、
瞳の奥には“自分を信じたい”という光が宿っていた。
「もちろんです。」
クィナーは目を細め、優しく微笑む。
「誰にでも通じる、美しい挨拶です。」
クレノの胸の奥に、じんわりと何かが灯る。
まるで冷たい土の下から、芽吹いた小さな命が顔を出すように――。
ロニが銀盆を運び入れる。
蜂蜜を垂らした薄いパンケーキと、温いミルク。
甘やかな香りがふわりと部屋に満ちた。
クレノは一瞬戸惑ってから、教わった通りに深く礼をし、
両手で器を受け取った。
「ありがとうございます。」
その音は、小さくても確かな響きだった。
誰かに教えられた形ではなく、自分の意思で紡いだ言葉。
そのたった一言が、この屋敷に“クレノ・イシュラウド”という存在を根づかせた。
クィナーは少し間を置いてから、穏やかに口を開いた。
「……クレノ様。学びとは、外見を整えるだけではありません。」
「……?」
「ご自身の心を守るための、“境界線”を作ることも、学びのひとつなのです。」
金の瞳が、ゆっくりと瞬いた。
「きょうかい……線……?」
「はい。“ここから先は、わたしの領分”と、心に線を引くことです。」
クィナーは羽根ペンを取り、紙の上に一本の線を引いた。
その内側に、ゆっくりと筆を走らせる――『尊厳』。
「この線を越えさせない言葉を覚えましょう。
この線を守る仕草を、ひとつずつ身につけましょう。
そして――この線を尊んでくれる相手を、“自分で選ぶ”自由を忘れないでください。」
その言葉は、どこまでも優しくて、まるで春の陽射しのようにあたたかかった。
クレノは、紙に記された“尊厳”という字を見つめた。
それは、これまで誰も教えてくれなかった言葉。
心のどこかで、ずっと求めていた“許し”にも似ていた。
彼は胸の奥で、そっとその言葉を繰り返した。
――尊厳。
自分の中に、小さな線を描く。
もう誰にも踏みにじられない、自分だけの場所を。
その瞬間、胸の奥の何かが、音もなくほどけた。
“される側”ではなく、“選ぶ側”として生きるための稽古。
その始まりが、ようやく訪れたのだ。
傾きかけた陽光が木漏れ日のように床を染め、
蜂蜜と古書の香りがやさしく混じり合う。
クレノは膝の上で、そっと両手を握った。
指先には、まだ誰かの温もりが残っている。
(……ルミエ様、今頃……何をしてるのかな)
思い浮かぶのは、あの人の笑顔。
いつも強くて、まっすぐで、それでいて時々、少し寂しげな目をする人。
胸の奥がじんとあたたかくなる。
彼女がくれた“居場所”と“約束”が、静かに心の真ん中で息づいていた。
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