第15話【学びの扉】
「ところで、ルミエール。」
バターの香りがまだ温かい朝餉の席で、エールドがパンを噛みながら口を開いた。
「今日は仕事か?」
「……はい。」ルミエールは背筋をただし、静かに頷く。「行かねばなりません。」
本当は、今日くらいは傍にいたかった。けれど――
(殿下にはクレノを探していただいた恩がある。ここで休むのは、義を欠く)
ちら、と隣を見る。クレノの金の瞳が、わずかに不安を溶かして揺れた。
ルミエールはすぐに穏やかな笑みでその色を押し流す。
「すまない。でも、クレノが“やりたいこと”を見つけられるように――」
「先生を雇ってある。」
父の言葉が静かに落ちる。「今日からは、その先生と一緒に礼儀や常識を学んでもらう。」
「……常識……ですか……」
「うん。大丈夫、無理はさせない。ゆっくり覚えればいい。」
ルミエールは目尻をやわらげる。「生きていくうえで、必ず力になる。」
クレノは小さく、けれど確かに頷いた。
「……はい。」
その返事が可愛らしすぎて――
(だ、抱きしめたい……!)
そう思ったのはルミエールだけではない。テーブルの向こうで、ダルシェがカップを持つ手に力を込め、エールドでさえ仏頂面のまま「ぎゅう」を飲み込んでいた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ルミエールを見送ったあと、クレノはしばらく玄関の石段に立ち尽くしていた。
磨き上げられた白い石。冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、白銀の髪が風にふわりと踊る。
不安と期待が、細い肩の上で均衡を取り合っていた。
「では、クレノ様――」
気配を殺して隣に並んだ青年が、軽く膝を折る。短い茶髪、落ち着いた瞳。袖口の紋章が清潔に光る。
「これからクィナー教授をご紹介いたします。ルミエール様がクレノ様のために、有名な学院より特別にお呼びした方です。」
「え……有名な学院って……あ、あの……」
自分のために、そんな人物が? 言葉は喉でほどけ、金の瞳が大きく見開かれる。
「クィナー教授は住み込みで、当家に仕えられます。」ロニはやわらかく微笑む。
「いかなる時でも、クレノ様が“学びたい”と望まれたら、すぐにお応えくださるはずです。」
「す、住み込み……」
唇が迷子のように震える。「……僕、本当に……ここまでしていただいて、いいのでしょうか……」
ロニは、そっとその手を包んだ。両手でやさしく、指先に温度をわたす。
「大丈夫です。クレノ様は今や、イシュラウド公爵家“次期当主の夫”でいらっしゃいます。」
声に虚飾はない。ただまっすぐな、敬意と親愛だけ。
「ですから、これは“当然”のことなのです。」
クレノの肩から、少しずつ余計な力が抜けていく。
小さな頷き。胸の奥に、恐る恐る火が灯る。
二人は一階西翼、光のさす長廊下を進む。格子梁の天井、深紅の文様を織り込んだ絨毯。
奥に待つ重厚な木扉の前で、ロニが指の第二関節で静かにノックした。
「クィナー教授、クレノ様をお連れしました。」
「どうぞ、お入りください。」
低く落ち着いた声が迎える。扉が開き、柔らかな陽が満ちる図書室がひらけた。
壁一面の書架、背表紙の国々。中央の書き台には羽根ペンと古図。磨かれた床にはオイルと古紙の香りが交じる。
そこに立つのは――
長い茶色の髪をひとつに束ね、丸眼鏡の奥に穏やかな知の光を宿す男。
「お初にお目にかかります。イシュラウド家学務顧問兼書記官、マッチ・クィナーと申します。」
襟元の子爵章が、薄陽を受けて鈍くきらめく。
深い礼。言葉の端に、格式と温度が同居している。
「よ、よろしく……おねがいします。クレノ・バレンタイン……じゃなくて、イシュラウド……です。」
名乗りはまだぎこちない。両手の先が小さく震えた。
「どうかご安心ください。」
クィナーはすっと膝をつき、目線を合わせる。
「最初は皆、緊張します。ではまず、“貴族としての挨拶”から、ゆっくり始めてまいりましょう。」
「……はいっ……!」
声は細い。だが瞳には、確かな芯が灯っていた。
“知る”という行為が、初めてクレノ自身の意志となって立ち上がる。
クィナーは静かに続ける。
「学ぶことは恥ではありません。知らないというのは、これから“知ることができる”という可能性です。」
「焦らず、クレノ様の歩幅で――ひとつずつ。」
クレノは深呼吸をひとつ、こくん、と頷いた。
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