第3話【祈りの果て】
その姿は、使用人には見えなかった。
あまりにも美しく、儚げで――この血に染まった牢の中では、あまりに異質だった。
――カチャリ。
鍵の噛み合う微かな音。扉がためらいもなく押し開かれ、気配とともに冷たい空気がゆるく流れ込む。
足音はほとんど響かない。けれど、風だけが彼の訪れを告げた。
「……あ、あの……」
少年のように若い、けれどどこか震えの残る声。
頼りない息継ぎと、まっすぐな意志が同居している。
彼は迷わなかった。ルミエールの前に膝をつき、目線を合わせる。
「僕……治癒魔法が使えるんです。今……治しますね」
伸びた指先が、そっと触れる。
触れた瞬間――
――ふわり。
あたたかな光が、ひび割れた器を包むように彼女を覆った。
春の陽だまりみたいな、やさしい魔力の波。
焼けついていた痛みが、すこしずつ、形を失っていく。
(……どうして?)
胸の奥がきゅっと熱くなる。涙がにじむ。
(私は……もう見捨てられたはずなのに)
鎖に繋がれ、傷つけられ、誰にも顧みられない場所で――
この少年だけが、ためらわず、手を差し伸べてきた。
(……無意味よ。治されたって、また――)
また捕まり、また傷つくだけ。
希望なんて、とっくに捨てたはずだった。
でも。
それでも。
血は止まり、呼吸が楽になる。
凍りついた胸の奥に、ぽつりと灯がともる。
顔を上げた瞬間、息が詰まった。
(……天使……?)
夢の中の人物みたいだった。
繊細な睫毛、透けるような白い肌。
そして、金の瞳は限りなくやさしく、どこか切なげに揺れている。
細い肩。抱きしめれば砕けてしまいそうな儚さ。
(……この子、本当に人間なの?)
身につけた服は簡素で、たしかに使用人のそれ。
けれど、白い髪と金の瞳――王国でも限られた血の証が、光の縁取りを受けていた。
「……ここから、出ましょう」
彼はそっと手を取る。手のひらは驚くほど温かい。
「え……」
抗う力はもう残っていなかった。
導かれるまま一歩、また一歩――傷に縫われた身体が不思議と軽い。
「どうして……?」
掠れた声で問う。
彼は振り返らない。駆けながら、まっすぐな声だけを残す。
「……あなた“だけ”でも、逃げて……!」
胸に刺さる、切ない真っ直ぐさ。
決意の音だけが、足元の石を叩いた。
ふたりは走る。血と影の匂いに沈む地下牢を――
絶望の闇へ差し込む、一筋の光のように。
けれど、その光が出口へ届くより先に、希望は断たれた。
「……ほう」
石の通路の先、重い鉄扉の前。
闇を割るように男が立っていた。
漆黒の髪が風もないのに揺れ、紅玉の瞳が細められる。
その存在だけで、空気が一瞬で冷たくなる。
「やはり悪女だな。たぶらかしたのか、そいつを……利用して逃げようと?」
――クレハ・バレンタイン。
かつて知っていた面影はもうない。
そこにあるのは、冷たい裁きと、燻る怒りだけ。
「……やはり、殺してしまうか。このまま外に出られては、少々都合が悪い」
詠唱はない。雷鳴のような轟きとともに、紫電が走る。
直線の光が、ルミエールを射抜こうとして――
「危ないッ!!」
白髪の少年が抱き寄せる。視界が反転した瞬間、光が彼を貫いた。
「――ッ!!」
眩い閃光。焦げる匂い。短い悲鳴。
細い身体が痙攣し、糸が切れたように崩れ落ちる。
「っ……!」
クレハの眉がわずかに震えた。
赤い瞳に、ほんの一瞬、言葉にならない揺らぎがよぎる。
「……どうして……どうして……っ!」
ルミエールは膝をつき、少年を抱え上げる。
血のついた掌で、その肩を必死に支えた。
「なんで……こんな私を……庇うの……? あなたは……何も知らないのに……!」
軽すぎる体温。指先に伝わる冷たさ。
それでも、彼はまだ目を開けている。
金の瞳が、ただまっすぐに彼女を見ていた。
怒りも責めもなく、ただ――やさしさだけを湛えて。
(……どうして)
胸がきしむ。そんなこと、あってはならないのに。
「……死ね」
刃より冷たい声。
ふたたび、詠唱のない魔が空気を裂き、ルミエールを吹き飛ばした。
(――ッ!)
石壁に叩きつけられる音が、骨の奥に響く。
肺が焼け、視界が遠のく。
(……っ……く……)
息ができない。身体が動かない。
世界が薄れていく。その縁に、ひとつだけ言葉が生まれた。
(……神様)
――どうか。
どうか、この人の命を、救ってください。
彼は悪くない。誰も傷つけていない。
それでも、私を助けてくれた。命を懸けて、名も知らない私を。
(私は……どうなってもいい)
かつての自分が脳裏に浮かぶ。
クレハの隣にいたくて、嘘を重ね、罠を仕掛け、未来を奪った。
笑顔の裏で、誰かの心を壊してきた。
(そう……クレハの言う通り。私は“悪女”だった)
でも――
(……彼は違う)
(この子だけは)
(どうか――生きて)
焼け付く痛みの海で、最後の涙が頬を伝う。
(私じゃない。……彼の命を)
ただ、それだけ。
誰かのために願った、初めての祈り。
意識はゆっくりと底へ沈む。
けれど、それでも。
“悪女”と呼ばれようとも、彼女の最後の願いは、たしかにやさしさだった。
もしこの祈りが、ほんの一欠片でも届くのなら。
たとえ自分が罰を受け、すべてを失っても――
彼の命だけは、どうか。
この地獄の現実から、光のある場所へ導かれてほしい。
それが、ルミエール・イシュラウドというひとりの少女が、
人生の最後に辿り着いた、いちばん静かで、いちばん純粋な“愛”だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます