第2話【断罪の果て】
歪んだ愛の行き着く先が、今まさに、地の底のような冷たい牢の中で迎えられようとしていた。
――バシンッ!
「……ッく……!」
鋭い鞭の音が、閉ざされた石牢に乾いた残響を残す。
空気が裂けるたび、ルミエール・イシュラウドの華奢な身体が小さく跳ねた。
錆びついた鎖が、ギシリと不快な音を立てる。
両手首は頭上の鉄環に吊るされ、細く白い腕には無数の擦過傷。
足元には、乾きかけた血と濡れた石が混ざる赤黒い染み――何度、彼女の命を吸い取ったのかもわからない。
牢は、生き物の腹の中のように重苦しく淀んでいた。
鉄と血、そして冷や汗の臭いが肌にまとわりつき、吐き気を催すほど濃密。
壁際の燭台にともるひとつの炎が、オレンジの揺らぎを投げていた。
その不安定な光の中で、ルミエールはゆっくりと顔を上げる。
「ただでさえ……母上のことで、婚約者を見つけるのが困難だというのに……」
氷のような声が、正面から響く。
靴音が石を打ち、低く冷たい怒気を伴って近づいてくる。
「よくも、俺の未来を……ことごとく台無しにしてくれたな。憎きイシュラウドめ!」
――バシンッ! バシンッ!!
容赦ない鞭が、再び、そして再び振り下ろされた。
皮膚を裂く音。肉を打つ衝撃。
痛みが神経の奥まで焼きつき、身体が反射的に震える。
だが、ルミエールは悲鳴を上げなかった。
声はもう、涙とともに焼き尽くされていた。
クレハ・バレンタイン。
かつて恋い焦がれたその名が、いまや恐怖の象徴となって彼女を縛っている。
赤い瞳に宿るのは、憎悪だけ。そこに愛の欠片はなかった。
「安心しろ……すぐに殺すつもりはない」
低く吐き出された言葉に、彼の唇が冷たく歪む。
愛した男の笑みではない。
地獄の鬼が、哀れな獲物を嬲るために浮かべる愉悦の表情だった。
「ゆっくり、じっくりと壊してやる。お前が潰した俺の“二年間”を――今度はその身体で償わせてやる」
その声音が、氷の刃となって胸に突き刺さる。
空気が肺を圧迫し、息を吸うことすら難しい。
ツーッと、一筋の涙が頬を伝った。
(――ああ……愚かだった。私……なんて、愚かだったのかしら)
痛みと後悔が混ざり、身体の芯が軋む。
息を吸うたび、内側から焼けるように熱く、視界がぼやけた。
(あのとき……あの夕暮れ。あの花束を落とした彼に、私は“優しさ”を感じてしまった)
――王宮の庭園。
泣いていた少女の前に、ふいに現れた黒髪の少年。
紫陽花と白薔薇、青いカンパニュラ。
彼は何も言わず、それを落として去っていった。
(……でも違った。あれは“くれた”んじゃない。“捨てた”ものだった)
気づけなかった。
あの時点で、彼の瞳に自分など映っていなかったのに。
(なのに、私は……それを大切にドライフラワーにして、窓辺に飾って……)
毎夜、彼の背を思い浮かべ、恋という名の幻想に酔っていた。
全て、自分の思い込み。
すべて、自分が創り出した“愛の幻”だった。
冷え切った指先から、感覚が抜けていく。
命の灯がゆっくりと萎んでいくのを感じながら、彼女は唇を微かに震わせた。
(ここまでされなければ、気づけなかったなんて――)
その思いが、最後の祈りのように胸に響いた。
かつての恋は、いまや地の底の闇に沈み、
彼女の瞳に宿る光さえ、絶望の中で静かに消えようとしていた。
――ピチャン……ピチャン……。
冷え切った石床に、一定の間隔で音が落ちていた。
それは、水滴のような微かな音。けれど、その正体は――彼女自身の血だった。
(……あぁ、また……)
ルミエール・イシュラウドは、半ば夢の底に沈みながら、ぼんやりと思う。
もはや痛みの輪郭すら曖昧で、代わりに、鈍く痺れるような熱が身体の奥に滲んでいた。
なのに、この“落ちる音”だけは、妙に鮮やかに耳に届く。
――ギィ……。
重たい鉄扉が軋む音が、濁った空気を震わせた。
その瞬間、空間全体が息を呑むように静まりかえる。
しばらくして、靴底が石を踏む乾いた音。
一歩、また一歩と近づくたびに、心臓が不規則に跳ねた。
(……足音……また、来たのね……)
身体がわずかに強張る。
それは恐怖というより、“終わり”を悟る生き物の本能だった。
(今度こそ……私は、殺される)
瞼を持ち上げようとしても、重たく動かない。
視界は滲み、光も影も区別がつかない。
それでも――。
その薄闇の中に、ふと、誰かの輪郭が見えた。
(……だれ……?)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます