回帰した悪女は生き方を180度変えてみることにしました。

無月公主

第1話【悪女の序曲】

 王宮の庭園には、陽が落ちる寸前のやわらかな光が降り注いでいた。

 空の端には茜色がにじみ、金と朱がまじり合う夕景が芝生を染めている。


 広大な緑の上では、絹や宝石を纏った貴族の子女たちが輪を描き、軽やかなワルツの調べに合わせて笑い合っていた。

 笑い声とグラスの音が混じりあい、まるで絵画の中の祝祭のようだ。


 だが、その華やぎから少し離れた噴水のそば、高く茂る木々の影に、小さな背を丸めた少女の姿があった。


「……グスッ、グスッ……お父様が亡くなったばかりなのに……どうして、こんな……デビュタントなんて……」


 しゃがみ込んだまま、涙をこらえるようにすすり泣く。

 薄紫がかった銀の髪が肩先にかかり、月光を編んだ糸のように揺れていた。

 淡いラベンダー色のドレスが芝の上でふんわりと広がり、その繊細なレースが彼女の涙をそっと受け止める。


 まだ幼さの残る顔立ち。

 睫毛に滲んだ雫が、頬を静かに伝い落ちた。


 ルミエール・イシュラウド。

 剣術の名門、イシュラウド公爵家の令嬢。

 そして今日が、彼女にとって初めての社交界“デビュタント”の日である。


 本来なら、隣にいるはずだった父。

 「剣の鬼」とまで呼ばれた公爵は、つい一週間前、戦地から還らぬ人となった。


 喪失の痛みが癒えるはずもない。

 けれど、貴族令嬢としての責務は、それを待ってはくれなかった。


 彼女は袖で涙を拭いながら、暮れかけた空を見上げる。


(……お父様なら、どうしてた? きっと、笑って前を向いてたんだろうな……)


 そのときだった。


 ――サッ。


 芝の上を滑るような足音が一瞬だけ止まり、すぐそばに小さな影が落ちた。

 視線を向けた瞬間、ひと束の花が彼女の前にそっと差し出される。


 紫陽花、白薔薇、青のカンパニュラ。

 美しく束ねられ、深紅のリボンで結ばれた花束――まるで誰かに想いを託すために用意された贈り物のよう。


「……えっ?」


 ルミエールは驚いて顔を上げた。

 しかし、花束を置いた人物はもう背を向け、静かに歩き去っていくところだった。


 黒髪。

 紅い瞳。

 すらりとした体躯に、無駄のない立ち振る舞い。


 彼は振り返ることなく、社交の輪へと溶け込んでいく。

 それでも、その後ろ姿からは目が離せなかった。


「……あ、あの……!」


 思わず声をかけたが、届かない。

 彼は群衆の中に消え、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。


(……誰? あの人……)


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

 残された花束から、微かに甘い香りが立ち上り、泣き腫らした心を不思議と癒していく。


 それが、彼女の運命を狂わせる恋の始まりだった。


 彼の名は、クレハ・バレンタイン。


 イシュラウド家と長年にわたり対立してきた、魔法の名門・バレンタイン家の嫡男。

 王国の貴族社会では、あの家を“裏の支配者”と呼ぶ者も少なくない。


 徹底した魔法至上主義。

 冷酷無比な統率。

 そして、目的のためなら味方すら切り捨てる。そんな噂が絶えない家系。


 だが、その冷たい仮面の奥に、ルミエールは確かに“何か”を感じ取っていた。

 あの一瞬、花束を差し出した時の横顔。

 光を拒むような紅い瞳の奥に、言葉にならない孤独が宿っていた。


 (どうして……こんなにも、目が離せないの)


 それが恋だと気づいたのは、ほんの数日後のことだった。

 夜会で彼の名を耳にするたび、胸が熱くなり、息が苦しくなる。

 そして、彼の婚約が囁かれるたび、胸の奥が、痛みと焦燥で焼けるように熱くなった。

 彼が他の誰かに微笑むのが、耐えられなかった。


 それはもはや、幼い恋などという可愛らしいものではない。

 もっと、執着に近い感情だった。


 彼の婚約話が浮かぶたびに、ルミエールは“策略”という名の行動を起こすようになった。

 誰にも悪意を向けているつもりはなかった。

 ただ、ほんの少し情報を流しただけ。

 少しだけ社交の場を整えただけ。


 それでも結果は残酷だった。


 イシュラウド家の誇り高き令嬢が、敵家の長男に恋をし、

 その婚約者候補たちをひとり、またひとりと社交界から“追いやっていった”という噂話は、

 貴族たちの格好の娯楽となっていった。


 いつしか人々は、彼女をこう呼んだ。

“悪女”ルミエール・イシュラウド――と。


 その名が囁かれるたび、胸が痛んだ。

 けれど同時に――心のどこかで、それでも彼の目に映りたいと願っていた。


 彼の紅い瞳が自分を見据えるなら、

 たとえ、それが軽蔑の視線でも。


 その恋は、やがて彼女の命をも焼き尽くす。

 それでも、彼女は微笑んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る