第18話:外壁の解体と、母の回復
光一の苦悶の叫びがリビングに響き渡る中、美樹と茜は静かに階下へと降りた。秋乃は光一の身体を抱きしめ、彼の頭を撫でていた。
「大丈夫よ、光一さん。美樹ちゃんたちが、この家を直してくれるわ」
秋乃の目には、以前のような怯えの色はほとんどなく、夫を守ろうとする強い意志が戻っていた。書斎の呪物(歯)が取り除かれたことで、彼女の精神的な支配が弱まり始めている証拠だった。
「秋乃おばさん、すぐに次の呪物を取り除きます。今度はリビングの外壁。光一さんが異常なほどに気にしていた、換気口の跡です」美樹は素早く状況を伝えた。
「わかったわ。光一さんのことは任せて。あなたたちは自分のことに集中して」秋乃は力強く言った。
美樹と茜は、光一と秋乃に背を向け、リビングの隅にある外壁へと面した場所に向かった。昨日、茜が爪と髪の呪物の痕跡を見つけた場所だ。
「爪と髪の呪物は、感覚を鈍らせ、異臭や冷気で居住者を家から逃げられなくするためのものよ。これを取り除けば、お母さんの感覚は元に戻る」
美樹は、光一に背を向けたまま作業できる位置に立ち、工具を構えた。リビングの外壁は、茜の部屋や書斎の壁よりも構造が複雑で、解体には時間がかかる。
「茜、あなたが光一さんの様子を見て。光一さんが動いたり、大きな音が聞こえたらすぐに知らせて」
「うん」
美樹は、換気口の跡が塗りつぶされた部分に、再び鑿(のみ)を当てた。
コン!ゴン!
書斎の時よりも遥かに響く音が、リビング全体を揺らした。土屋悟が換気口を塞ぐために使ったセメントは、尋常ではないほど硬く、美樹は全身の力を込めて鑿を打ち込んだ。
音が響くたびに、床に横たわる光一の身体がビクッと跳ねた。
ゴン!
大きなセメントの塊が剥がれ落ちた。そのセメントの内側には、断熱材ではなく、茶色く変色したスポンジ状の物質が敷き詰められていた。
「これだわ…」美樹は息を呑んだ。
美樹はピンセットでそのスポンジ状の物質を剥がすと、その下から、大量の黒く硬い髪の毛と、粉状に砕かれた大量の爪の破片が、ドサリと床に落ちた。その瞬間、部屋を満たしていた冷気と、微かな血の匂いが、一気に強烈になった。
「うっ…!」茜は思わず鼻を覆った。
「これよ、呪物の巣!これで家が呼吸できないように、外との繋がりを断っていたのよ!」
美樹はすぐに落ちた呪物を集め、袋に封入した。
呪物が取り除かれた瞬間、光一の苦悶の表情が、潮が引くように静まった。彼は深い呼吸を取り戻し、眠りについたかのように静かになった。
そして、秋乃が、大きく、深く、ため息をついた。
「はぁ……やっと、臭いが消えた」
秋乃はそう言って、床に落ちた呪物の残骸を見つめた。彼女の顔には、この数日間、彼女を苛んでいた「異臭」と「冷気」の呪縛から解放された、確かな安堵が浮かんでいた。
「お母さん…」茜は涙ぐんだ。
「大丈夫よ、あかね」秋乃は立ち上がり、美樹の肩に手を置いた。「ありがとう、美樹ちゃん。これで、あの職人の悪意が何をしようとしていたか、はっきりわかったわ」
二つの呪物が取り除かれた今、残るは大黒柱の「心臓」だけ。
しかし、その柱は、秋乃たちが一息ついた今、リビングの真ん中で、ひときわ強い、冷たい存在感を放っていた。そして、柱の根元からは、先ほどまで光一を苦しめていた黒い泥の痕跡が、不気味に乾いていた。
「残るは、核となる大黒柱の呪物よ。でも、あれは…」美樹は鑿を持ったまま、柱を見上げた。
「大丈夫。今度は、私たち三人でやるわ」
秋乃の言葉は、以前の怯えた母親のものではなく、家族を、そして家を救おうとする、確かな覚悟に満ちていた。
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