第3話 これは表音文字だ
貴美子は出社すると、すぐに上司の末澤均のデスクに向かった。「末澤さん、急に医院になど行きまして申し訳ありませんでした」と謝った。
末澤部長は貴美子の会社の創立以来のメンバーで、IT業界を渡り歩いた人間だ。大手IT企業のF通の生成AI部門に所属していたが、ヘッドハントでこの会社に入社、その際に部下で最も優秀な貴美子も一緒に移籍してきたのだ。
「貴美子、もう診察は済んだのか?早いじゃないか?無理しなくて休んでも良いんだぜ」
「このビルの三階にある皮膚科に行ってまいりました。仕事ができないような病気じゃないんですよ」
「皮膚科?皇后雅子様が罹っている帯状疱疹とかか?過労やストレスが関係するんなら大変だぞ」
「そういう病気でもないです。自覚症状もないというか……あの、説明しますから会議室に行きません?」
貴美子は末澤が会議室の席に着席すると早速タブレットのフォトを見せた。「問題はこれなんです。この写真は私の右腕に今朝急に浮き出てきた
「この
「ええ、これです」と貴美子はシャツの袖を折り返して上腕部の
「医者はなんと言っているのだ?」
「血液検査とかアレルギー検査やいろいろな検査を受けましたが、検査結果がでていないですからね。まだなんともお医者さんの所見はありません。可能性としては、『ストレスは皮膚に影響することがあって、ストレスで蕁麻疹が出たり、湿疹が悪化したりするようなことはある。だけど、文字のような模様は珍しい』と言われてました」
「確かにそうだ。これは英語やギリシャ語のアルファベットと違うが、何らかの表音文字か表意文字のように見える。俺には表音文字のように見える」
「これが?表音文字ですか?ひらがなとかカタカナみたいな?」
「ああ、そう思う」
「どっちが上なんでしょうね?左から右に読むんでしょうか?」
末澤はもう一度貴美子の腕の
「これが何か知りたいんですから、構いません。でも、ちょっとくすぐったかったけど……」
スマン、スマンと言いながら末澤はタブレットの写真を拡大したり180度回転させたりしながら「確かじゃない、感覚的に言うと、貴美子の親指の方がこの文字の上だな。それで、左から右に読むようだ」と貴美子に言った。
「え?どうしてでしょうか?」
「証明するのは難しいが、アラビア文字や古代文字は、尻尾みたいな文字がある場合、それが下になる。英語の『g』とか『f』もそうだろう?ギリシャ文字の『
𐡇𐡠𐡆𐡠𐡅𐡠 𐡋𐡉 𐡓𐡡𐡔 𐡔𐡠𐡋𐡠𐡌𐡠 𐡅𐡌𐡠𐡋𐡠𐡀𐡊𐡠 𐡇𐡠𐡆𐡠𐡅𐡕𐡠 𐡃𐡠𐡇𐡠𐡓𐡠𐡕𐡠 𐡌𐡠𐡇𐡠
𐡍𐡤𐡅𐡠𐡓𐡠 𐡃𐡠𐡉𐡢𐡃𐡠𐡏𐡠 𐡔𐡠𐡋𐡠𐡈𐡠 𐡅𐡉𐡠𐡒𐡠𐡃𐡠 𐡅𐡏𐡠𐡋𐡠𐡌𐡠 𐡔𐡠𐡁𐡠𐡏𐡠 𐡔𐡠𐡐𐡠𐡓𐡠 𐡌𐡠𐡆𐡠𐡏𐡠𐡆𐡠𐡏𐡠
𐡂𐡠𐡁𐡠𐡓𐡢𐡉𐡠 𐡃𐡠𐡁𐡠𐡇𐡠𐡓𐡠 𐡔𐡠𐡇𐡠𐡋𐡢𐡉𐡠𐡍𐡠 𐡒𐡠𐡋𐡢𐡉𐡠𐡐𐡠 𐡃𐡠𐡂𐡤𐡔𐡠𐡌𐡠 𐡅𐡂𐡠𐡐𐡢𐡉𐡠 𐡓𐡤𐡅𐡠𐡇𐡠𐡍𐡢𐡉𐡠 𐡒𐡠𐡍𐡢𐡉𐡠𐡍𐡠
𐡀𐡠𐡋𐡠𐡄𐡠 𐡃𐡠𐡂𐡠𐡋𐡠 𐡍𐡠𐡇𐡠𐡌𐡠 𐡅𐡀𐡠𐡓𐡠𐡏𐡠 𐡁𐡠𐡒𐡠𐡏𐡠 𐡉𐡠𐡌𐡠 𐡓𐡠𐡈𐡠𐡇𐡠 𐡔𐡠𐡌𐡢𐡉𐡠 𐡁𐡠𐡃𐡠𐡌𐡠 𐡎𐡠𐡁𐡠𐡏𐡠
「それで、これが文字とすると活字じゃない。この最初の行の左から5番目と8番目の文字を見てご覧。これは同じ文字のように見える。だけど、手書きみたいに微妙に書体が違う。それと同じ文字が頻繁に出てくる。母音なのか?……え~っと」と彼は文字数を数え始めた。「一行目が43文字……二行目が54文字……三行目が61文字……四行目が60文字……合計218文字……シェイクスピアが書いたヨーロッパの14行で構成される定型詩のソネットがある。四・四・三・三、または四・四・四・二といった行構成だが、ソネットの最初の四行の文節みたいにも見えるぞ」
「末澤さん、脅かさないでくださいよ。そのソネットみたいにまだ文節が三つ、体に浮き出すとでも言われるんですか?」
「スマン、スマン、偶然、四行なんでソネットが頭に浮かんだだけだ。それにしても、医者の言うように『ストレスで蕁麻疹が出たり、湿疹が悪化したりするようなこと』はあるが、こんな文字みたいなものが、偶然皮膚に浮き出るとか、俺は思えない。医者が原因を究明しないといけないが、それは生理的なこの現象の究明であって、では、なぜ、これが文字のように見えるのか、ということを医者は究明できないぜ」
「末澤さん、またまた、脅かさないでくださいよ。末澤さんはこれが何かの超常現象とでもお考えなんですか?」
「それは俺にもわからん。ただ、医者の診断だけでは不十分だろう。この文字みたいなものが、本当に偶然の産物なのか、それとも過去に存在した文字なのか、そうだとするとどの時代の文字なのか、そして、意味がある文だとすると、この135文字の意味はなんなのかを解明する必要もあると思う」
「末澤部長がそれをできると?」
「バカ言え。俺はIT業界の人間だぞ。これは言語学とか古文書学、暗号解読の分野だ。だが……」
「だが?」
「俺の中学高校大学の同期の人間で、小林遼というのがいる。大学では最初は数学科専攻だったのが、途中から、ダン・ブラウンのダ・ヴィンチ・コードを読んで、俺もロバート・ラングドンみたいになりたいと、暗号解読や古文書学、文献史学、言語学、宗教象徴学の研究を始めちまったんだ。ま、暗号解読は数学とまったく無縁ではないからな。それで、最近は、まだ解読されていない言語の解明をAIを使って解読する分野なんかにも手を広げている。社長に小林遼の話をしたら、面白いってんで、我が社から彼の研究室に助成金を出しているんだ」
「部長、小林先生にお会いできますか?お会いしてこの
「あ~、あいつはどこに行っちまうのかわからんからな。ちょっと、待て。彼の研究室に居場所を聞いてみるからな」
末澤はスマホをスピーカーフォンモードにして、小林の研究室に電話した。
「もしもし、小林助教授の研究室ですか?わたくし、AIインフィニティー社の末澤と申しますが、小林くんはおられますか?」
「あ!末澤部長、お世話になっております。助手の村上でございます」と女性が応対した。「ウチのバカ助教は……失礼いたしました!小林は、現在パキスタンからギリシャに行きまして、ドバイ経由で明日のエミレーツ便で羽田に着くはずです……ちゃんと搭乗していればの話ですが……」
「明日……羽田第三ですか?」
「ええっと、少々お待ち下さい……EK312便、羽田第三、22:30分の到着です」
「羽田で捕まえないと、銀座とか行っちまって、行方知れずになるかもしれないなあ……あ、村上さん、私が羽田に迎えに行きますよ」
「ありがたいことです。南インドから中近東、中東の旅の途上で、ウチのバカ助教はお姐ちゃんとの写真しか送ってきませんので。日本ではまともに仕事して欲しいです……って、助成金、ありがとうございます。遊んでいるように見えて、ちゃんと御社への報告書にもありますように『Journal of Cryptology』など世界的権威の雑誌に論文を出してます。量子コンピューターでのAI利用の暗号解析などの御社へのレポートも書いてます……助成金の継続をお願いします……」
「村上さんも苦労されてますね。あいつは人を困らせる名人ですから。中学校以来、まったく変わりませんよ。助成金は心配なされないように。我が社の社長も小林のことは満足してますんで」
「では、羽田で小林をひっ捕まえてください。お願い致します……」
「……部長、大変なご友人のようですね?」
「俺は中学以来23年の付き合いで慣れているが、まあ、変人だ。天才肌の人間は変人だよ」
「明日の羽田のお出迎え、私も同行してよろしいでしょうか?」
「タブの写真を見せれば十分だよ。貴美子が行くことはないんだよ」
「私の問題でもありますし……」
「小林に貴美子を会わせたくないんだよ。女癖が悪いヤツだから……」
「小林助教授が何をしてきても、私、大丈夫ですわ」
「貴美子、そうじゃない。小林は女に何もしない。女が勝手にヤツに身を投げ出すんだ」
「え?」
「まあ、会えばわかるよ。今電話で応対した村上助手だって、小林にイカれてるんだからな」
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