第2話 諸星クリニック

 午後の診療が一息ついて諸星医師は店屋物のカツ丼を一口頬張りながら、モニターに映る高解像度デジタル顕微鏡の画像を拡大した。10cmにわたる四列の模様は、まるで精密に刻まれた文字のようだった。アラビア文字や古代文字に似ていて、無秩序ではなく、規則的なパターンを示していた。


 拡大画像では、模様の輪郭が滑らかで、表皮に明らかな損傷や炎症は見られない。色調は赤みを帯びた紫で、均一に分布しているが、部分的に濃淡があった。「これは確かに単なる紫斑あざや湿疹じゃないな」と独り言をつぶやき、箸を置いてマウスを手に取った。


 次に、マルチスペクトルイメージングのデータを確認した。可視光と近赤外線で撮影した画像では、模様が真皮層に起因していることが示唆された。表皮はほぼ無傷で、色素沈着やメラニンの異常は見られないが、真皮の毛細血管周辺に微細な赤血球の漏出が確認できた。


「血管からの滲出か……しかし、血管炎や凝固異常の兆候はない」とメモに書き込み、貴美子の問診内容を思い返した。彼女は外傷やアレルギーの既往を否定し、ストレスも「普段通り」と述べていたが、IT業界の納期のプレッシャーを軽く触れていた。


 コンフォーカル顕微鏡の画像に切り替えると、真皮の深さ方向の構造がより明確になった。模様の中心部では、毛細血管の軽度な拡張と赤血球の血管外漏出が観察されたが、炎症細胞(リンパ球や好中球)の浸潤はほとんどない。


「心因性紫斑の可能性はあるな……Gardner-Diamond症候群(心理的ストレスや感情的要因が引き金となって皮膚に自発的な紫斑あざや出血斑が繰り返し現れる稀な疾患)のような」と考え、文献で読んだ症例を思い出した。ストレスが引き起こす自己感作反応で、特定の部位に紫斑や出血が現れるケースだ。しかし、文字のような規則的な模様は異例で、文献に類例はなかった。


 貴美子のスマホ写真と比較すると、彼女の朝7時の撮影から診察時の画像まで、模様の形状や色に変化はない。経時的な進行がないことから、急性炎症や感染症の可能性は低いと判断した。


「もし自己誘発性なら、もっと不規則な傷跡や擦過痕があるはずだが……」と首をかしげた。彼女が「部屋に誰もいなかった」と確認した点も、Factitious Disorder(意図的な自己傷害)の可能性を下げる要因だった。


 その日の午後、諸星は診察の合間にラボから届いた検査結果を確認した。貴美子から採取した皮膚の生検サンプルの組織学的分析レポートがメールで届いており、血液検査とアレルギー検査のデータも添付されていた。諸星はモニターにレポートを表示して読み始めた。「さて、原因が少しずつ絞れてくるかな」と独り言を呟いた。


 まず、血液検査の結果から確認した。CBC(全血球計算)、凝固機能(PT、APTT)、CRP(C反応性蛋白)、ESR(赤沈)などの炎症マーカー、さらには自己免疫関連のANA(抗核抗体)やRF(リウマチ因子)もすべて正常範囲内だった。血小板数やヘモグロビン値に異常はなく、凝固異常や感染症の兆候は見られなかった。


「出血傾向はないな。全身的な疾患の可能性は低い」とメモに記した。


 アレルギー検査も同様で、特異的IgE抗体テスト(食物、環境アレルゲン)と皮膚パッチテストの結果は陰性だった。貴美子が問診で述べたように、アレルギー既往はなく、接触性皮膚炎やアトピー性皮膚炎の証拠はなかった。


「これでアレルギー反応の線はほぼ除外できる。物理的な刺激や感染もなさそうだ」と考え、貴美子の症状が局所的なものに絞られることを確信した。


 次に、皮膚サンプルの分析結果に目を移した。生検は紫斑あざの模様の一部から採取したもので、病理医のレポートには詳細な組織学的所見が記載されていた。真皮層に赤血球の血管外漏出(extravasation of erythrocytes)が観察され、毛細血管の軽度な拡張と充血が見られたが、血管炎や炎症細胞(リンパ球、好中球)の顕著な浸潤はなかった。


 周囲の組織には軽度の浮腫(edema)と非特異的なリンパ組織球の集積が認められたが、表皮はほぼ無傷で、角質層の異常や感染の兆候はなかった。ヘモシデリンの沈着(pigment deposition)は最小限で、慢性出血を示唆するものではなかった。


 模様の輪郭部分では、赤血球が真皮のストローマに散在的に広がっており、汗腺や毛包周辺に血液成分が開口しているように見えた。「これは…心因性紫斑や血汗症の所見に近いな」と諸星は思った。


 文献で見た類似症例を思い浮かべ、ストレスが毛細血管の脆弱性を高め、漏出を引き起こすメカニズムを連想した。しかし、模様が文字様に規則的に並んでいる点は説明がつきにくく、「単なるランダムな出血じゃない。心理的な要因で特定のパターンが形成されるなんて、稀有なケースだ」と首を捻った。


 諸星はレポートの顕微鏡写真を拡大して確認した。真皮の血液充満空間が毛根管に繋がり、表面への排出経路を示唆していたが、自己誘発性の傷跡(擦過や刺傷など)は一切ない。「Factitious Disorder(意図的な自己傷害)の可能性は低い。貴美子さんの性格からしても、意図的に傷つけたとは思えない」と判断した。


 考察として、ストレスや感情的要因が真皮の血管に影響を与え、局所的な出血を起こした可能性が高いと結論づけた。文字様の模様については、「無意識的な心理的暗示がパターンを生むのか? それとも偶然の分布か」と疑問を残したが、皮膚精神医学の観点から精神科医への相談を検討した。


 これらの結果を踏まえ、諸星は貴美子に連絡する準備を始めた。「異常なしの検査結果は安心材料だが、皮膚の所見から心因性の線が濃厚だ。次回の診察で詳しく説明しよう」とメモをまとめ、午後の患者を待つために席を立った。貴美子の紫斑あざが単なる皮膚異常ではなく、心身のつながりを示すものだと感じ始めていた。


 貴美子に話しても構わない内容を素人向けに簡潔に書いたメール文を作成した。貴美子の連絡先を改めてみると、このクリニックの同じビルの17階の会社に勤めていることがわかった。


 メールを送信すると、すぐに貴美子から返信が来た。今日、明日はプロジェクトの追い上げでクリニックに行けないこと、明後日の午前9時半に伺えますと書いてあった。


「明後日までにもっと調べておくか」と諸星は呟いて、フォトや検査結果をPDF文書にして、大学時代の恩師の教授にメールをした。「患者の紫斑あざが単なる皮膚異常ではなく心身のつながりを示すものだと考えるが、先生はどう思われますか?」という自分の所見を付け加えておいた。

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