第4話 ウチのAIにこれを見せました?
貴美子は、会社の17階にある自分のデスクで、スマホを手に深いため息をついた。
ビル3階の諸星クリニックで右前腕部の模様を診察してもらった後、諸星医師から夕方に届いたメールを読み返していた。件名は「本日の診察について」
メールは簡潔で、専門用語を避け、素人にも分かりやすい内容だった。
件名:本日の診察について
神宮寺貴美子様
本日、右前腕部の模様について診察いたしました。現時点では、心因性紫斑(ストレスや心理的要因による皮膚の変化)の可能性が考えられますが、確定診断には追加検査が必要です。模様の形状は珍しく、文字のような規則性がありますが、医学的な原因は不明です。明後日の午前9時半の来院の際に、血液検査や皮膚生検を提案いたします。
追伸:神宮寺様が当クリニックと同じビル17階の企業にお勤めと知り驚きました。
諸星クリニック 諸星均
貴美子はメールを閉じ、目を細めて呟いた。「諸星先生も判断に迷っているんだわ。心因性紫斑って……ストレスが原因? でも、文字みたいな模様が原因不明だなんて。すぐに治療を始めるとかの段階じゃないんだわ」
彼女は右前腕を無意識に擦り、四列の模様が蛍光灯の下で不気味に浮かぶのを見つめた。デスク上のPCモニターには、AIプロジェクトのコードが映り、納期やクライアントの無茶な要求が頭をよぎり、不安が胸を締め付けた。
だが、メールを読んでの不安もプロジェクトの仕事で吹き飛んでしまった。チーム内のミーティング、末澤部長への進捗報告、クライアントからの追加依頼……作業に一区切りついたのは、10時半過ぎだった。後輩の高杉恵子が「やってらんないわ!先輩、飲みに行きましょう!」と貴美子を誘った。
会社の近くの居酒屋の個室で、貴美子は恵子と酒を酌み交わしていた。個室は薄暗く、壁に掛けられた魚の絵が揺らめき、煙草の匂いが漂う。貴美子は長袖シャツのまま、ビールジョッキを手に疲れた顔で座った。
高杉恵子は小柄で、黒髪をポニーテールにまとめ、コケティッシュな笑顔が魅力的な23歳の女性だ。末澤がヘッドハントで採用した優秀なプログラマーで、貴美子とは同じAI開発プロジェクトを担当している。生真面目で慎重な貴美子とは対照的に、恵子は大胆でおちゃめな性格で、チームのムードメーカーだ。
二人はビールジョッキを早速飲み干し、二杯目に移っていた。貴美子は冷たいジョッキを頬に当てて息をついた。恵子は小柄な体を座椅子に沈め、頰を赤らめながら串焼きを頬張っている。
恵子はブラウスを緩め、ジョッキを回しながら、「貴美子先輩、最近のプロジェクト、ほんとキツくない? 自社AIの開発だけでも死にそうなのに、クライアントの依頼が雪崩みたいに来るよね! 例えばさ、あの人事評価AIの案件、頭おかしくなりそう!」と愚痴りだした。
貴美子はジョッキを傾け、ため息をついた。
「ほんと、地獄。自社のAI開発だけでも手一杯なのに、クライアント案件が重なるともう無理。社員人事評価AI。業績データから公平なスコア出すシステムだけど、クライアントの要望が細かすぎるわよね。AIが万能だとでも思っているみたい。クライアントが提供したデータのバイアス排除や法的適合でミーティングばっかり。仕様書の作り直し、データのプライバシー対応、カスタムアルゴリズム……開発部隊は自社プロジェクトほったらかしで、コーディング時間が半分以下よ」
恵子は枝豆を摘み、くすくす笑う。「わかる~! 自社のAIだってさ、企画でニーズ調査、要件の定義、アーキテクチャ設計、PythonとTensorFlowでモデル訓練……データ前処理だけで吐きそうですよ! GPUサーバーでの学習を数日かけ、テストで精度検証を繰り返してデプロイ、そんでメンテで更新。アジャイルの2週間スプリントなのに、クライアント案件で中断されまくり! 人事評価AIなんて、倫理レビューやテストデータ集めで納期が遅れそうだわ。進捗報告書を書くだけで目眩がしますよね。イノベーション? んなもんないよ!クライアントの『ここ直して!』対応で消耗だもん。先輩、ストレスで倒れる前に飲まなきゃ!」
貴美子は苦笑し、ビールを一口飲んだ。「ほんと、ストレスしかないわよねえ」とため息をついた。
恵子が急に顔をあげて「先輩、ところで、今朝、病院に行ったでしょ?具合が悪いんですか?休まないとダメです!いったい何の病気なんですか?」と直球で聞いてきた。
「末澤部長には説明したんだけどね」とシャツの右袖をまくって恵子に見せた。「これなのよ。この
「だから、明後日も朝クリニックに寄ってから出社するわ。忙しいのにごめんね」
「事情が事情だから問題ないですよ。気にせずに診察を受けてきてください。でも、痛みとかないんですか?」恵子がタブレットのフォトを逆さにしたり拡大したりしながら貴美子に聞いた。
「全然ないわ。痛くも痒くもないの」
「心因性紫斑……確かに、我が社はブラックな環境だから……先輩!労災適応したら?」
「なにいってんの。そんな面倒くさいことはしません!」
「まあ、いいや、冗談です。で、末澤部長は、『これは英語やギリシャ語のアルファベットと違うが、何らかの表音文字か表意文字のように見える。俺には表音文字のように見える。感覚的に言うと、貴美子の親指の方がこの文字の上だな。それで、左から右に読むようだ』って言われたんですか?」
「そうよ」
「本当かな?部長のカンですよね?この親指の方がこの文字の上なのか、左から右に読むのかも不確かですよね……ところで、このフォト、ウチのAIに見せました?」
「え?」
「やだなあ。こういう文字みたいなものに意味があるなら、AIが解析できるじゃないですか?ご自分の専門領域でしょう?」
「あら!そんなこと、思いつかなかったわ!」
「このタブ、ウチのAIアプリが入ってます?」
「ええ、インストしてるけど……」
「じゃあ、ウチのAIに聞いてみましょうよ。これは文字なのか?文字だとするとどのような意味なのか?って」
「業務外使用がいいのかどうか……」
「固いこと言いっこなしで!」
恵子は貴美子のタブのAIアプリを立ち上げると、『添付したフォトは文字なのか?文字だとするとどのような意味なのか?』という単純なプロンプトを書き込んでAIに尋ねた。
𐡇𐡠𐡆𐡠𐡅𐡠 𐡋𐡉 𐡓𐡡𐡔 𐡔𐡠𐡋𐡠𐡌𐡠 𐡅𐡌𐡠𐡋𐡠𐡀𐡊𐡠 𐡇𐡠𐡆𐡠𐡅𐡕𐡠 𐡃𐡠𐡇𐡠𐡓𐡠𐡕𐡠 𐡌𐡠𐡇𐡠
𐡍𐡤𐡅𐡠𐡓𐡠 𐡃𐡠𐡉𐡢𐡃𐡠𐡏𐡠 𐡔𐡠𐡋𐡠𐡈𐡠 𐡅𐡉𐡠𐡒𐡠𐡃𐡠 𐡅𐡏𐡠𐡋𐡠𐡌𐡠 𐡔𐡠𐡁𐡠𐡏𐡠 𐡔𐡠𐡐𐡠𐡓𐡠 𐡌𐡠𐡆𐡠𐡏𐡠𐡆𐡠𐡏𐡠
𐡂𐡠𐡁𐡠𐡓𐡢𐡉𐡠 𐡃𐡠𐡁𐡠𐡇𐡠𐡓𐡠 𐡔𐡠𐡇𐡠𐡋𐡢𐡉𐡠𐡍𐡠 𐡒𐡠𐡋𐡢𐡉𐡠𐡐𐡠 𐡃𐡠𐡂𐡤𐡔𐡠𐡌𐡠 𐡅𐡂𐡠𐡐𐡢𐡉𐡠 𐡓𐡤𐡅𐡠𐡇𐡠𐡍𐡢𐡉𐡠 𐡒𐡠𐡍𐡢𐡉𐡠𐡍𐡠
𐡀𐡠𐡋𐡠𐡄𐡠 𐡃𐡠𐡂𐡠𐡋𐡠 𐡍𐡠𐡇𐡠𐡌𐡠 𐡅𐡀𐡠𐡓𐡠𐡏𐡠 𐡁𐡠𐡒𐡠𐡏𐡠 𐡉𐡠𐡌𐡠 𐡓𐡠𐡈𐡠𐡇𐡠 𐡔𐡠𐡌𐡢𐡉𐡠 𐡁𐡠𐡃𐡠𐡌𐡠 𐡎𐡠𐡁𐡠𐡏𐡠
48秒後、AIは、
『これはアラム文字(おそらく古代アラム文字、パルミラ文字、または古代フェニキア文字かそれに近い)の碑文のような文字であると推測されます。この文字は現代アラビア語と同じく右から左に読まれます。現代の言語とは異なるため、正確な翻訳は非常に困難です。また、文脈がないと解釈が複数になる可能性があります』とAIの回答があった。
「ええ!も、文字なの?既知の文字なの?右から左に読むの?意味があるの?」と貴美子は驚いた。
「先輩、続きを見ましょう。タブレットだから回答の出が遅いわね」と恵子。
『通常のパルミラ碑文の文字とは異なり、すべての文字の間に 𐡠 (aleph, アラム語の母音補助記号) が規則的に挟まれています。つまり、視覚的には疑似的にアラム語のように見せた人工文(いわゆる装飾的あるいは儀式的文字列)であり、既知の古代アラム語・パルミラ語・シリア語・フェニキア語の語彙や文法とは一致しません』
「どういうこと?」
「先輩、落ち着いて」
『古代アラム語・パルミラ語・シリア語・フェニキア語は、子音だけで構成された22文字ですが、画像の文字は、5つの母音(A-E-I-O-U)を含めた27文字で構成されています。語彙対応の試み(例えば 𐡓𐡔𐡋𐡌 など)も、既存のパルミラ碑文に該当語がありません。従って、翻訳可能なアラム語文ではないことが確定します。
・推定される可能性:
人工的な祈祷文/装飾的パルミラ文字の模造
→ 見た目の神秘性のために人工的に作られた例。
暗号文(アレフ挿入式置換暗号)
→ すべての文字の間に𐡠を入れることで、元文を秘匿している可能性。
生成AI/自動翻訳エラーにより生じた無意味列
→ Unicodeブロックの「Palmyrene」文字を機械的に並べたもの。
であると思われます』
「人工的な祈祷文?詩とかじゃなくて祈祷文?暗号文?生成AIにより生じた無意味列?わけがわからないわ!そんなものがなぜ私の右手に現れるの?なんで!」
「あ、先輩、まだ続きがありますよ」
『尚、さらに詳細にお知りになりたい場合、AIインフィニティー社の古代文字解読の協賛をされている東京大学古文書文献史学研究室の小林遼助教授までご連絡してください』
「えええ?小林遼助教授って、末澤部長が言われていて、明日、羽田に迎えに行く人じゃないの!」
「先輩、これは面白くなってきましたね。私も羽田に行っちゃおうかなあ……」
「それは……明日、部長に聞いてみるわね」
「K312便、羽田第三、22:30分の到着でしょう?明日は早めに仕事を切り上げて、羽田エアポートガーデンの新しいお店を散策しましょうよ!部長の奢りで、『うなぎ四代目菊川』で『蒲焼き一本重』なんてどうでしょう?」
「あ~あ、恵子にはかなわないなぁ。でも、そうよね!ウジウジしていてもしょうがない!羽田で鰻を食べて、小林助教授を迎えに行きましょう!」
「大賛成です!」
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