第8話


 警視庁本部庁舎の所在地は千代田区霞が関にある。

 和人と涼太が警視庁に到着したのは午後二時過ぎ。

 到着と同時に煙草の臭いの染み付いた会議室に招かれた室内に入ると、宗次郎と若井がすでに到着を待っている状態だった。

「お待たせしたみたいだな」

 涼太は初めて会う若井に挨拶をしている中、和人は宗次郎に例の封書を手渡した。

「これが高木誠警部の?」

「はい、そうです」

「高木警部の在籍状況を調べたが、十年前から行方不明になっているな」

「そうですか」

 和人が最後に関わった事件直後、行方を晦ましたようだ。

「封書の件は知っていると思うが、筆跡鑑定に出すなら四週間程度時間が掛かる。異例中の異例だが和の記憶を頼りに俺と若井はこのまま白石晃さん殺害の容疑として捜査することになるな」

 宗次郎と若井がそうやって捜査を進めた所で他の捜査官が納得するのだろうか――和人が首を傾げると、宗次郎はニヤリと口角を上げた。

「お前が心配することじゃねぇよ。それより自分の身を案じてな。わりぃが高木さんの件は俺らで極秘に捜査することになるから、お前の護衛までは手が回らない」

「それは構いませんが、一言注意を。高木さんは自分の手を決して汚しません。必ず関係者を真犯人に仕立てあげるんです」

「そりゃまた難儀なことだ」

 宗次郎は大きく溜息を溢した。

 手袋をした手で封書の中身を調べる。

 便箋が一枚。

 それ以外ない。

 便箋には『楽しみたまえ』の字。

 筆圧が強いせいか、便箋の文字の一部が万年筆のペン先で抉れている。

「他には? 封書見つけた時、不審な点はなかったか?」

「気付いたのは宗次郎たちが帰った後。周りに人はいなかった」

 そうか――宗次郎は便箋に目を落とした。

「この封書は預かって俺らだけで警部補の家に行くが、構わないな?」

 家は蛻の殻だろう。

 本来なら妻子が帰りを待っている家。

 新築だった家。

 ぬくもりのある家。

 幸せがあった筈の家庭に突如降りかかった災厄で妻を亡くし幼かった子をも亡くし、高木は一人残され復讐を誓った。しかし、復讐は限りなく歪で高木を自分の手を穢さないという暗黒の渦へと落としていったのだ。

 そうして出来上がったのは、自ら殺人計画を提供した状態で探偵を個人で雇い、幾つもの事件を捜査させることで知名度を上げ妻子を殺害した犯人を誘き出そうという、なんとも遠回りな計画を実行していたが探偵たちには勿論知らされていない。

 犯人が見つからず、真相に近付いてしまった探偵たちは行方を晦ませたり事故死をしたりで、その後の生存は証明されていなかった。

 和人も――と言うより助手の水城譲が計画に気付き、危うく過去の探偵たちと同じ末路を辿る所だったのである。

「高木さんの家に行くなら、私も一緒に行っても良いだろうか?」

 小さく控えめに手を挙げ、和人は呟くように言った。

 探偵時代、高木の家を訪ねてことはない。

 家主のいなくなった家はどうなってしまっているのか気になってはいるが、もし家に高木がいたら自分は正気でいられるだろうか――和人の不安は拭い去れない。

 宗次郎は低く唸った。

「他の捜査員がいる時は無理だが――まぁいい。一緒について来い」

「それじゃ、俺はここでお暇するよ。高木某の件は範囲外だからな」

「涼太、一緒に来てくれてありがとう」

「いや。和一人だと心配なだけだからな」

 和人の頭を大雑把に撫でぐり、じゃ――と涼太は帰って行った。

「いい歳の男に一人だと心配、か」

 溜息を吐き呟く和人に、宗次郎は大口を開いて豪快に笑った。

「何言ってやがる。どこに待ち合わせても迷子になりやがる奴が」

「相変わらず大きな声だな。署内でそんな大きな声は宗次郎しかいないんじゃないか?」

「そもそもここで笑う機会なんてそう多くねぇからな。俺だけとは限らねぇんじゃないか、なぁ若井?」

 俺に振らないでくださいよ、若井は心底嫌そうに応えた。

 高木誠の住居は木造住宅の建ち並ぶ足立区にあった。

 表札には『高木』の黒文字がしっかり書かれている。

 二階建て家屋のそれは静かに、しかし物悲し気に佇んでいた。見た目からも実際も、もう何年も人が足を踏み入れてないのが分かる。

「ここが高木さんの――……」

 和人は言葉を詰まらせた。

 木製の門扉を抜け、インターホンを押したが中で鳴っている様子はない。

「壊れているな」

 宗次郎は呟くと扉をノックした。

「すみません、高木さん。いらっしゃいますか?」

「いないわよ」

 背後からの突然の返答に若井は、うひゃぁ、と情けない声を上げた。

「失礼、あなたは?」

 門の前に初老の、いかにも神経質そうな婦人が立っていた。

 警察手帳を翳しながら宗次郎は和人たちの前に出た。

 門扉がキィと軋む。

「あら、刑事さん。私、隣に住む加藤というの。高木さん、どうかしたのかしら?」

「加藤さん。最近高木誠さんとお会いしましたか?」

 宗次郎の問いに加藤夫人は頬に手を宛がい深い溜息を吐いて見せた。

 「いいえ、全く。何年も会ってないのよ。奥さんと息子さんがああなっちゃったでしょ、もう何年前かしら。お葬式に参列したけど、旦那の誠さん、そりゃもう滅入っていらしてね。そりゃそうよね、家を改築したばかり、お子さんも生まれたばかりなのに可哀そうよね。犯人も捕まってないって言うじゃない。怖いわね。刑事さんが来たってことは、もしかして犯人捕まったのかしら?」

 存外お喋りだ。

「いえ、残念ながら犯人は目下捜索中です。奥さんは葬儀以降、高木誠さんをお見掛けしたことはありますか?」

 加藤夫人は考える素振りで暫し空中を見上げた。

「いつだったか見掛けたわね。随分雰囲気変わってたけど、そうねぇ――あれはいつだったかしら? 時間は覚えてないけど、確か夜だったわね、夜」

 少なからず一度高木は帰って来ているようだが、しかしこの家には有益な情報は無いだろう。

 加藤夫人に礼を言って、一行は高木邸を一周し不審な点がないか確認し、警視庁に戻った。

「家に戻ってないなら、別の場所があるはずなんだが」

 宗次郎は和人を伺い見たが、心当たりが無いのかすぐに首を横に数度振った。

「探偵時代はこんなことになるなんて微塵も思ったことなかったから、いちいち聞いちゃいませんよ」

 当時、和人が営む探偵事務所に高木は毎日のように訪れていた。

 それが日常であったし、当たり前のルーティンであってなんの疑問も抱かなかった。

「何かないか、高木誠が行きそうな場所」

 何かと言われても――口元に指をあて和人は考えたが、あまり当時を思い出したくない。

 思い出そうとすると吐き気と眩暈がして考える余裕が無くなる。

 ――ああ、厭だ。

 ふらつく。

「和、平気か」

 ふらつく和人の背に宗次郎は手を添えた。

「すまない、大丈夫だ」

「体調悪いのか?」

 いや――首を横に振る。

「あの時は未成年だったからか、捜査が終わったらどこに寄るでもなく帰らされましたし、必ず現場で待ち合わせていました。勿論とても裏で殺害幇助している様には見えませんでした。正直今でも嘘であってくれ、と僅かながら思っています」

 高木誠の行きそうな場所。

 検討もつかない。

「お役に立てずすまない」

「いや、問題ないが――本当に大丈夫なのか?」

 太い眉毛が立派な八の字を作っている。

 厳つい顔でガタイが良いせいか避けられがちだが、心根は幼馴染みの中でも今まで会ってきた人間の中でも誰よりも優しい。そんな気遣い上手の宗次郎の役に立てれば一番良かったが、そう簡単にはいかないようだ。

 和人は、己の無力さに呼吸が出来なくなった。

 藻掻いても藻掻いても、それでもどうすればいいのか分からない。

「高木さんの居所は不明だが、調べてみる」

 精一杯の解答をし、和人は自分に言い聞かせるように何度も頷いた。

「調べるだと? そんなことしたら危険じゃないのか」

「危険がない所まで調べるよ」

 調べる当てはない。

 和人が今出来る事といえば、過去の事件を洗い直しくらいか。

 その過去の事件でどれくらい高木が暗躍をしていたのか――関わった事件全てではないと願いたいが、それも調べてみないことには分からない。

 過去を引き摺る和人にとって酷な作業である。自身でもまだ割り切れず引き摺っていると思っているが、いい加減大人なのだ、過去に起きたことはもうどうしようもないと反省を踏まえて立ち直るべき。

 今回が良い機会なのだろう。

 高木が関わっているか否かは封書だけでは判断できない。

 もしかしたら白石晃の事件には関りはなく別の事件の可能性だってありうるが、過去の事件を調べることで共通項が洗い出せるだろう。それを警察と共有することで高木逮捕は近付く。

 そう言い、若井に自宅まで送らせると宗次郎の申し出を丁重に断り和人は警視庁を後にした。

 外は暗く、丁度帰宅時刻と被っている。

 足早に帰宅の途につくサラリーマンよりもゆっくりとした足取りで進んだ。

 どこに行っても煙草の臭いが鼻につき、和人は眉間に皺を寄せた。

 警視庁から自宅まで幾つか乗り継いで約一時間は掛かる。

 急ぐ道程でもない。

 煙草の臭いが充満している新宿に降りて書店に寄り、何を探すでもなく店内を見て回る。

 ベストセラー本が書店入って正面にズラリと並んでいるが、今年の大阪万博のガイドブックが一番売れたであろう。その次は塩月弥栄子氏の『冠婚葬祭入門』、曽野綾子氏の『誰のために愛するか』と続く。

 曽野綾子氏の作品はいくつか読んだことはある。

『遠来の客たち』で芥川賞候補となり二三歳で文壇デビューし、代表作はデビュー作と『砂糖菓子の壊れるとき』だ。

 単行本コーナーに行けば今月出版された和人の推理小説と、エラリー・クイーンの作品で刊行されたばかりの『最後の女』の洋書が隣同士に並んでいた。

 クイーン作品を翻訳をしてみたい――和人は疼く気持ちを抑え、まだ翻訳されていないクイーンの『孤独の島』と『最後の女』を手にしてレジに持って行った。

 和人は小説家として顔出しはしていない。

 作家によくあるサイン会もしたことはない。

 担当編集の人間しか和人の顔を知られていないから日々気兼ねなく堂々と書店巡りが出来るのだが、折角 今日はさすがに心の余裕はなかった。

 心身共に疲労している。

 忘れられない高木誠の嘲笑い見下ろす顔。

 十年経った今になって再び封書を送ってくるのだ、高木は相当に執念深い男だと知れる。

 第一にこの十年間一度として顔を見せることも、今回のような封書を送ってくることもなかった。それが今になって、どうしたわけか突如として和人の家に来てまでしてポストに入れたのか。

 何が目的なのか――高木の行動は常人では理解できない範疇に及んでいる。

「――……」

 どんどんと腹の奥底に黒い感情が埋まって行く感覚に陥る。

 自然と頭が地面に吸い寄せられるような不快感。

 平静を装って店員から書籍の入った紙袋を受け取り店の外に出た。

 日中は暖かい日差しが出ていたが、さすがに十二月。陽が落ちると一層寒さが増す。

 軽く体を震わせ、コートの襟元を立てた。

 一歩踏み出すと革靴がキュッと音を出した。

 満員電車の中、クイーンの『孤独の島』を読む。

 先程の寒さはどこに行ったのか、人々の熱で電車の中は蒸し暑く、ジワリと額に汗が滲んで出た。

 新聞紙で扇いでいるサラリーマンもいる。

 明治二二年(一八八九)四月に私鉄の『甲武鉄道』として新宿から立川間が開通し、今現在は『中央線』と名を変えサラリーマンや会社勤めの足の助けになっていた。

 駅舎の改造や駅ビル建設の始まった立川駅を降り、二十分程歩くと和人の自宅に着く。

 周囲の木造住宅に比べ、比較的最近建てた家屋は洋風の白壁に囲まれ、庭の緑の芝生は手入れが行き届いている。

 また高木から封書が届いていはないかと、ポストを恐る恐る覗いたがチラシ一枚も入っていなかった。

 ホッと息を吐いて玄関の鍵を開けた。

 購入した書籍を机に置き、書斎の仕舞いっ放しにしていた探偵時代の資料が入った箱を引っ張り出す。家政婦の鶴子の掃除のおかげで埃が積もっていることはなかったが、開けるのは実に十年振り。

 几帳面にも事件毎にファイリングされているのは、助手だった水城譲のおかげだ。

 右から順にファイルが並ぶ。

 探偵として活動していたのは大学を中退してからの一年間。

 たった一年間。

 濃密な一年間であった。

 ファイルは二十余り。

 多いと言われれば多いが、少ないと言われれば少ない。

 全てが殺人事件だったわけではない。

 高木を介さずにペット探しや浮気調査等の探偵らしい仕事を請け負ったこともあった。

 右端のファイルを一冊手に取る。

 探偵と名乗る前の、大学在学中の構内で起きた事件だ。この事件で高木と出会い、探偵として働くこととなった印象深い事件。

 この時まだ水城は助手ではなく、和人の父親の秘書をしていた。

 水城にとって不本意だったに違いない。

 それでも和人に嫌な顔を微塵もせず、わずか一年間、素人同然の成り立て探偵の助手を完璧にこなしてくれた。

 出来た助手だった。

 当時十九歳だった探偵は傍若無人の服を纏った人間で高木にも水城にも迷惑をかけていたろうが、そんな和人を見た高木は大口を開けて豪快に笑い飛ばして大いに楽しんでいた。

 それも全て演技だったのかと思うと非常に遣る瀬無い。

 ――余りに辛い。

 和人は無意識に宙を仰ぎ、目の端から雫を流した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 


 

 

 

 

 

 

  












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