第9話
橋本鶴子は雇い主の財閥家である嵐橘某邸での午前中の仕事を終え、週に数度通っている財閥家の末息子である嵐橘和人の住まう邸宅へ向かった。
嵐橘某氏には奥方との間に、五人の令息令嬢がいる。
和人は先にも述べた通り末息子で、一番上の長男とは二十歳も歳が離れていた。
長子長女の二人は現役を貫く高齢の父と共に幾つもの会社を守っているが、それ以外の子息――和人を含め――は自由気ままに生活している――とは言うものの、子離れのなかなか出来ない奥方は良い大人の五人の子供たちの生活にいちいち口出しして、それだけでは飽き足らず自ら子供たちの元へ訪れては手も足も出している。
その一端を担うのが和人の家にやって来る鶴子の存在だ。
最初こそ母親に言われ週に数度の家政婦の存在を和人は煩わしく思っていたが、それからどうしたものか元々生活能力ゼロの和人には鶴子はとにかく持って来いの人材だった。
子供のように不貞腐れた表情を隠しもしなかった当初に比べ、今現在はぎこちないなりに鶴子に対して笑顔を見せ、何となくスムーズに会話らしい会話もするようになった。
過去に傷を負った男には人との会話はどれ程難しかったか。そうなれたのも全ては鶴子の人柄によるものだろう。
鶴子の性格は見た目のんびりしているようでその逆、芯はしっかりしており雇い主の息子に臆することなくはっきりと真っ当な意見する。
家庭環境がそうさせていた。
父親は随分昔に病気で亡くなっている。
寝たきりの年老いた母親、歳の離れた高校生の弟。
それから母は昼夜問わず働き詰めて体を壊し、遂には寝たきりになってしまった。
鶴子と弟は決して道を外れることはなく、高校生の弟は優秀でこのまま奨学金を得て大学進学も視野に入れている。そんな弟も姉の鶴子に違わず働き者で、学校が休みの日は勉学に励むことを怠らず嵐橘家に通っては屋敷の内外の清掃をしたり、嵐橘某氏の幼い孫たちに家庭教師の真似事もしていた。
電車を途中下車し改札を出て、はたと立ち止まった。
「あ――」
先日和人と約束した、ビートルズのレコードを持って来るのを鶴子は忘れてしまっていた。
丁度正面にレコード店があって思い出したのだ。
楽しみにしていたなら申し訳ないな――今夜の夕飯と翌日の朝食昼食の献立を考えながら、スーパーマーケットで食材を仕入れる。
「大根と長ネギと、卵は確かあった筈」
日本のスーパーマーケットの始まりは、一九五三年に東京の青山にオープンした『紀ノ国屋』、一九五六年に福岡県小倉にオープンした『丸和フードセンター』が元祖とされていた。一九五二年に大阪京橋にオープンした『京阪スーパーマーケット』は、初めて店名に『スーパーマーケット』と言葉を使ったことで知られている。
レコードは素直に謝ろう――この年の四月にビートルズは解散した。
駅前のレコード店もご多分に漏れず、店先で大々的にビートルズの十三枚目にして最後のレコードを押している。
世界中で絶大な人気を誇るイギリスのロックバンドだが、和人はビートルズを詳しく知らないと言っていた。鶴子もさほど変わらない。それなのになぜレコードがあるかといえば、高校生の弟が好きなのだ。ビートルズのレコードは弟にとって唯一自分で稼いだお金で購入している。
和人に貸すと伝えたら、弟は大切なレコードを喜んで数枚――特にお気に入りの――貸してくれた。
それなのに折角弟が貸してくれたレコードを家の玄関に忘れてきてしまったのだ。
はぁ――自分の至らなさに重い溜息が漏れる。
一端落ち込むとなかなかに沼に浸かってしまい、鶴子は更にドツボに嵌ってしまう。そこから抜け出すのも一苦労だ。
「すみません」
両手にスーパーの袋を下げ、嵐橘家まであともう少し――という所で、不意に背後から呼び止められた。
「はい?」
グレーのハットを被り、薄墨色の上下のスーツ。
清潔感のある紳士然とした、見た目長身で五十歳後半から六十歳前半くらいの男が立っていた。
足が不自由なのか右腕にステッキを掛けている。
「橋本鶴子さん」
「え――あ、はい、そうですが……」
一切の迷いもなく名前を告げられ、鶴子は動揺しながらも返事をした。
底知れない威圧が鶴子を襲う。
まるで蛇に睨まれた蛙状態だ。
少しでも体を動かそうものなら、蛇の大口に飲み込まれてしまう。
「ああ済まないね。未だに昔の職業病が抜けきれなくて」
済まない済まない――笑わない人間が無理に笑うような、紳士然とした男には似合わない空笑いを見せた。
不自然な笑み。
どことなく嘲笑に近い。
――いや、違う。
笑っていないのだ、目が。
頬の筋肉は上がり両目が綺麗な三日月を描いているが、瞬き一つせずしっかりと鶴子を捕らえている。
見覚えない男だ。
今までの人生で会ったかどうか必死に思い出うとするが、どれだけ頑張って捻り出そうとも出てくることはなかった。
「驚かせたな、君とは会ったことないよ」
頭の中を覗かれた――一瞬そう思った鶴子は肩をビクつかせた。
「私は和人の知人なんだ。暫く会っていなかったから顔でも見ようと思ってね、近くまで来たんだよ」
「和人さんの――そう、だったんですか」
そうだったとしても、何故鶴子の名前を知っているのか、安堵と同時に冬にも関わらず背中を汗が伝った。
「か、和人さんならいらっしゃると筈ですが」
三日月の瞳は変わらない。
名も名乗らない男はゆっくりと口を開けた。
「いや、もう和人には用はない」
「――え」
「申し訳ないが君には犠牲になってもらうよ」
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