第7話

 腹部が焼けるように痛む。

 和人は重力に負けてアスファルトの上に崩れた。

 車が二台止まっているだけの閑散とした地下駐車場。

 ここに関係者しかいないのは調査済みだ。

 助けを呼ぼうが震えた声が無様に反響するだけで、外の歩行者には届かない。

 ――違う。

 腹部に手をやると赤が掌を染める。

 ――これは夢だ。

 すぐに状況を理解できる程頭は冴えている。

 ――これは、夢だ……。

 だが現実だ。

 十九歳の若かりし当時の。

 殺人事件の犯人の男を追って地下駐車場に辿り着いた。

 息が上がる。

「待て!」

 犯人に手を伸ばせば届く。

 が。

 銃声と共に腹部に重い痛み。

 和人は突然の銃弾に倒れた。

 頭の回転が鈍る。

「なん、で……」

 犯人の男が拳銃を持っているとは聞いていない。

 そもそも今回の犯人はビニール傘の先で恋人を殺害してしまった、という突発的な殺人だ。犯人はどこにでもいる平凡なサラリーマンであって、拳銃を手にできるような人間との関係性は見当たらない。しかも的確に和人の腹部を撃っている。

 ――いや……。

 これは犯人が撃ったものではない。

 崩折れながらもどこから狙撃されたか弾道を見定める。

 振り返った犯人は倒れた和人に驚いていた。やはり犯人が撃ったものではない。

「先生!」

 車の中で待機していた水城譲が駆け寄って来た。

「来ては駄目だ!」

 一瞬立ち止まるも、水城は構わず足を早めた。

 動くことが多いからと水城は自らヒールを捨て、運動靴を履いた程の気概のある女性だ。幾度も銃器を持つ犯人と対峙してきただけに、ちょっとやそっとでは怯んだりしない。

 今回もそうだ、自分が危険に晒されるのも厭わず、上司である和人を守ろうとした。

 昔起きた出来事を夢で見ているんだ――和人は、早く覚めろ、と願った。

 ここから先は見たくない。

 拳銃を撃ってきた人間も知っている。水城が車から出てしまったがためにどうなるかも知っている。

 先が分かっている悪夢を幾度も幾度も、精神が壊れる程に反芻した。

 そして、和人は思う。

 もし夢で現実と違う行動を起こしたら、現実が変わってくれはしまいか――アスファルトに突っ伏したまま切に願ったが、どれだけ必死に叫ぼうが水城は和人を助けに車から出て来るし、犯人の男は制止も聞かずに逃げ去った。

 今回の事件の犯人は現在でも逃げ果せている。

 当初は犯人も知れているし、すぐに確保し解決に至る簡単な事件だと、十九歳の探偵は驕ってしまった。

 驕った結果が、これだ。

 ――いや、違う。

 ――違う。

 事件そのものが罠だった。

 確かに当時、自分は簡単に解決できる、警察より有能だと自惚れていた。探偵として数々の難事件を高木誠警部補と共に解決へ導いて来たのだ、多少のふてぶてしさはあって然り。

 若気の至りであったろう。

 そうだったとしても。

 全ての和人が関わった事件が罠だった。

 そう気付いたのは、銃弾に倒れ、水城が叫び、男の笑い声が聞こえた時。

 もう遅い。

 銃声が響く。

 近くで水城が倒れ、男は更に高笑いした。

 ――どうして?

「どうして!」

 水城は倒れたまま身動きしない。

「水城君!」

 呼び掛け続けると、指先がピクリと反応した。

 去る足音。

 男の聞き知っている笑い声。

 カツーンと革靴が鳴らし、地下駐車場に響き渡る。

 ――どうして?

 どうにか上半身を起こし、足音のする方へ顔を向けた。

「流石にしぶといな、和人」

 上等なスーツを着こなした男は拳銃を和人に向けたまま、ニタリと気味の悪い笑みを見せる。

「高木さん!」

 警視庁刑事部捜査第一課の高木誠警部補は、慣れた手付きで銃身を和人の額に付けた。

「ここまでよくやってくれた。感謝するよ。だが、お前が頑張っても見つからなかったな」

「見つからなかった?」

 高木は何を言っているのか。

 腹部の熱い痛みでぐらりと地が揺れる。

「お前ならば見つけられると思ったんだがな。残念だ」

 もう時間切れだ――撃鉄がガチンと鳴った。

 引金に掛けられた人差し指に力が入る。

 瞬間。

 和人の身体は大きく傾き、地面に叩きつけられた。

 銃声が轟く。

 轟く――。

「?」

 水城が和人の上に覆い被さっていた。

「み、水城君」

「先生――逃げて……」

 ぬるり、と水城の流した赤い血が手にべっとりと付着した。

 早く逃げて――掠れた声が微かに聞こえる。

「嫌だ」

 震える。

 首を左右に振り、涙が頬を伝った。

「嫌だ!」

 流れた血は温かく、アスファルトは冷たい。

「優秀な助手を手に入れたな」

「高木さん、どういうつもりです!」

「探偵だろ? 少しはその軽い頭で考えてみろ」

 何を――高木を睨んだ。

「十秒数えるうちに逃げろ。水城が庇った命だ。ゆっくり時間を掛けて死に追いやってやろう」

 十――……。

 「水城君しっかりするんだ、水城君!」

 鮮血が水城の周りに広がっている。

「水城君しっかりしろ!」

 九――……。

 訳が分からない。

 どうして高木がこんな真似をしているのか。

 見つからなかった、とはどういうことなのか。

 八――……。

「水城君」

 銃弾を幾つもくらった水城はすでに事切れていた。

「ああ、そんな」

 七――……。

「水城君――」

 慎重に地面に横たわせる。 

 走った。

 六――……。

 走った。

 走った。

 地下駐車場から地上へ――。

 五――……。

 だが、銃弾をくらった身体では思うように動いてくれない。

 声が聞こえる。

「くそっ! どうして!」

 四――……。

 まだ、どこかに高木のことを信じていたのかもしれない。

 高木に背中を向け、走る。

 三――……。

「誰か――」

 ようやっと坂を登り地上の明るい日差しを浴びる直前、和人は再び銃弾に倒れた。

「済まん、十秒も待っていられん質でな。お前なら分かっているだろう?」

 高木は和人の生死を確認せず地下駐車場から立ち去り、以降行方を晦ました。

 わざと逃がしたのだろう。

 結局高木の目的が分からずだ。

 後になって警視庁で聞いた話だが――。

 高木には妻子がいた。

 過去に捕まえた殺人犯が刑務所から出所後、腹いせに妻とまだ三歳だった子供を殺害し逃走。

 犯人はまだ逮捕されていない。

 ――もしかしたら高木は犯人を探しているのではないか。

 和人の前にも幾人もの探偵と組んでいた、と高木本人から聞かされていたのは覚えてはいた。そしてその探偵の多くは殉職または行方不明が少なくない。

 同様に高木の罠に掛かったのだろう。

 こんな夢を見てしまうのは、ひとえに前日封筒に何も書いていない封書が届いたからだ。

 

『楽しみたまえ』

 

 よく知った筆跡。

 力強い筆勢、字画構成、筆圧、字画形態。

 どれを取っても、高木誠の筆跡だ。

 見間違える筈はない。

 和人はふと、目を開いた。

 息が上がっている。

 額に汗し、顔を歪めた。

 ――不快だ。

 ベットから這い出て洗面所に向かう。

 封書のことは涼太と宗次郎にすぐに連絡した。

 午前中に涼太と合流し、共に宗次郎が在籍している千代田区の警視庁に向かうことになっている。

「警視庁か」

 十年振りだ。

 両方の手が微かに震えた。

 蛇口から水を出し顔を洗うと、キンと冷えた水は今の不安に満ちた気持ちをほんの少しばかり慰めてくれる。

 慣れたくはないが、事件の夢を見た時は動悸や呼吸困難、酷い時はパニック障害になってしまうのだ。

 体調が優れない、自分の顔を鏡で見ると真っ白な顔が見える。

 時刻は六時を回った。

 二度寝したら確実に約束の時刻までに起きられず寝過ごしてしまうだろうから、机に向かい原稿用紙を広げる。広げたまでは良いが、ここ数日ネタが無くて困っていた。

 そんな中、昨日和人の作風には珍しく新聞小説の仕事が舞い込んできたのだ。

 今年の新聞小説は戸川幸夫の『新聞社カメラマン』や永井龍男の『けむりよ煙』がある。

 怪奇を好む作風で新聞小説にするのは些か無理があるのではないか――担当編集者に言ったものの、そんなことはない、の一点張りだ。編集者の熱意ある発言に、和人はタジタジになりながら了承せざるを得なかった。

 例えばどうだろう。

 今まで和人の小説では主人公は成人した人間ばかりを採用してきたが、あえてここは未成年の学生を使ってみては。

 それが新聞小説に向いているかどうかはさておき、先の戸川幸夫や永井龍男とは違った視点での作風になる。

 学生の行事と言えば、文化祭、体育祭、修学旅行――。

 「修学旅行、か」

 修学旅行はトラブルが付きものだ。

 現に和人が中学の修学旅行先で、女子生徒が旅館の部屋で『幽霊を見た』と言って旅館を巻き込んで大騒ぎになった事があった。

「あの時は結局どうなったんだか」

 部屋を変えてもらったか、思い出せない。

 涼太に聞けばいいだろう、とメモ帳にネタを書き込んだ。

 作風を変えず、怪奇小説を書いてみようか――。

 ――少女、はどうだろう。

 女子生徒たちを乗せた一台のバスが山奥でエンジンストールを起こした。他のクラスのバスは前を走って姿はすでに見えない。

 無線も通じない、他の自動車や観光バスも通らない山奥。ガイドやバスの運転手は近くに家がないかバスを降り探索をするが、一時間経っても二時間経っても二人が戻って来ることはなかった。

 夕方になり、不安を覚えた生徒数名が教師に自分たちも探すと直訴するため、教師と共に女子生徒たち複数名は森の奥へと向かう――。

「ありきたり、だな」

 万年筆の動きを止め、肩を竦めた。

 思考を仕事に持っていければ夢を見たことを忘れられるが、一旦筆が止まってしまったら途端に頭に浮かんでしまって恐怖で鼓動の音が耳にはっきり聞こえてくる。

 ドクドク、ドクドクと――。

 両手で顔を覆い気持ちを落ち着かせようと、深く深呼吸を数度繰り返した。

 ――二九歳にもなってこんなでは駄目だな。

 案外小説家の寿命は正直短いものになるのだろう。

 どれだけ考えても新しい小説の題材は生まれてこない。だが、それ以外の職種につけるかとなると唸らざるを得ないのだ。

「一息つこう」

 新聞を取りに行こうと立ち上がった時、玄関に人の気配を感じて身構えた。

 玄関の呼び鈴が室内に響く。

 柱時計を見ると、いつの間にか十一時を過ぎていた。

 まずい――待ち合わせは十時、完全に涼太が家にやって来たようだ。

「和――……」

「済まない、仕事で考え事していたら」

「言い訳は聞きたくないな。こっちは心配して何度も電話したんだぞ」

 電話にも気が付かなかった。

「その分だと朝飯もまだなんだろ?」

 和人の扱いに慣れた涼太は腕捲くりすると、台所に向かって冷蔵庫を開けた。

「なんだ、鶴子さんがちゃんと作り置きしてくれているじゃないか。食べなきゃ失礼だ」

 ラップが掛けられた煮物を取り出す。

「うん、美味しそうだ。それと――炊飯器のご飯は昨日作ったのか? ちょっと変色してるが食べられるな。あとは納豆もあるし」

 テキパキとテーブルに朝食が整っていく。

 あまりの素早さに和人は呆然と立ち尽くすしかなかった。

「ほら、座ってさっさと食べる」

「まるで母親だな」

「そうさせてるのは誰だ」

「そうだな、済まない。ありがとう」

「分かればよろしい」

 座って箸を持ち和人は、いただきます、と言った。

 

 

 

 
















 


 

 

 

 

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