第30話 窓辺
春の午後。
カフェ〈窓辺〉のガラス戸が、軽やかな鈴の音を立てて開いた。
外は薄桃色の風。
街路樹の桜が散りながら、歩道を淡く染めている。
風が入るたび、店内のカップが小さく触れ合って鳴った。
「いらっしゃいませ。」
綾女の声は、以前よりも少し柔らかく、
その響きには“怖さ”よりも“確かさ”があった。
店内には三つのテーブル。
窓際の席は、いつも通り凛花が拭いている。
光が床に落ちて、ゆっくり動く。
空気の中に、コーヒーと木の匂いが混ざっていた。
凛花が布巾を握ったまま、
笑いながら言う。
「ねえ、“窓管理担当さん”。
今日は、窓、開ける日?」
綾女はカップを拭きながら、
少し考えてから言った。
「はい。
今日は世界の声が、いい音で聞こえそうなので。」
凛花が頷く。
「じゃあ、オープンウィンドウだね。」
彼女が窓の鍵を回すと、
風が静かに入り込んだ。
鈴がまた鳴り、
外の光が店の奥まで届いた。
---
最初のお客さんは、
駅前で見かけた老婦人だった。
「このお店、あったかい光が見えたのよ」
そう言って笑い、
カウンターに座ってコーヒーを頼む。
綾女はその笑顔を見ながら思う。
(“見られる”って、
こんなふうに誰かの笑顔で返ってくるんだ……)
会話は少なくても、
世界は確かに、やさしい。
凛花はその様子を見ながら、
小声で囁く。
「今日もちゃんと“返還”できてるね。」
「え?」
「ほら、
あのお客さんの目に映ってるあやめ、
ちゃんと“光を返す目”になってる。」
綾女は頬を赤くして、うつむいた。
「……褒めすぎです。」
「ほんとだよ。」
ふたりの笑い声が、
カップの音と重なって、店の中に柔らかく広がった。
---
昼過ぎ。
常連客が帰ったあと、
店はひとときの静寂に包まれた。
光が窓辺をなでる。
外の通りでは、
子どもたちが追いかけっこをしている声がした。
綾女は、その声の方向へ視線を向けた。
裸眼のまま、
窓のガラスに自分と世界の姿が重なっている。
その瞬間、
ふいに思い出が蘇る。
——“怖いままで見てください”。
母に言った言葉。
あのときの光。
彼女は目を細めた。
世界が、もう刃ではなく、
ただ透きとおる光になっている。
「ねえ、凛花さん。」
「ん?」
「わたし、やっと分かりました。」
「なにを?」
「“見ること”って、
“生きてる”ってことなんですね。」
凛花が微笑む。
「それ、今日の名言。」
「またですか。」
「うん。
でも今日は、これまでの中でいちばん、
“世界の真ん中”にある言葉だよ。」
凛花はカウンターにカップを置き、
静かに息を吐いた。
「ねえ、あやめ。
あなたが“見る勇気”をくれたおかげで、
わたしも“気付きすぎない勇気”を覚えたんだ。」
綾女が目を丸くした。
「……それ、初耳です。」
「でしょ。
でもほんと。
人を助けようとして、自分まで壊しそうになってたけど、
今は違う。
あやめがいてくれるから、
わたしも自分の“世界の明るさ”を信じられるようになった。」
綾女は、静かに微笑んだ。
そして言った。
「……凛花さん。」
「なに。」
「わたし、あなたを見てます。」
凛花が一瞬、動きを止めた。
彼女の瞳に、春の光が差し込む。
その光の中で、
ふたりの視線がゆっくりと重なった。
---
沈黙。
けれど、それは不安ではなかった。
互いの視線の中に、
“確かな呼吸”があった。
空気の粒が光になり、
時間がゆっくり伸びていく。
凛花が先に笑った。
「……見られるの、嫌いじゃないかも。」
綾女も笑う。
「わたしも、
“見る”のが、好きになれました。」
外で風鈴の音が鳴った。
カフェ〈窓辺〉のガラスが少し揺れ、
陽射しが床の上を滑る。
---
その日の閉店後。
凛花はカウンターの中で、
最後のカップを片付けていた。
綾女は、窓の外を見つめている。
街灯がひとつずつ灯り、
遠くの空には一番星が光っていた。
綾女はそっとメガネを外した。
レンズに映る世界を見て、
静かに呟く。
「……今日も、
世界は壊れませんでした。」
凛花が微笑む。
「それ、毎日聞きたい。」
「毎日、言います。」
「じゃあ、約束ね。」
「約束です。」
二人の声が重なり、
鈴の音のように静かに響いた。
---
外の風が、
夜の匂いを運んでくる。
綾女は窓を少しだけ開けた。
街のざわめきと笑い声が混ざり、
遠くで列車の音がした。
その音は、
まるで世界全体が
ゆっくり息をしているように聞こえた。
「ねえ、凛花さん。」
「なに?」
「この世界、
もう“怖くない”です。」
凛花は彼女の隣に立ち、
静かに空を見上げた。
「うん。
あやめが見てくれたから。」
二人の影が、
ガラス越しの光の中で並んで揺れる。
そして、
その影は少しずつひとつに重なった。
---
——見て、見られて、
光を返す。
その単純で美しい循環の中に、
彼女たちは生きていた。
世界はもう、刃ではない。
やわらかな窓。
風を通し、光を抱く透明な境界。
その“窓辺”に、
今日も二人の笑顔があった。
魔眼の少女に(が)人たらしが(に)恋を教える lilylibrary @lilylibrary
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