第4話「仮面の下の脈動」

【ノア】


 学園都市の朝は、人工の太陽で始まる。

 照明のような光が天井ドームを照らし、街全体がゆっくりと目覚めていく。


 ノアは、格納庫の警備ゲートを通り抜けた。

 いつもより早い時間。

 今日はイージス・ゼロの神経伝達系を点検する予定だった。

 彼が来る前に終わらせておきたかった。


 昨日の夜から、ずっと胸がざわついていた。

 “エラーじゃなくて感情”――

 あの言葉を、彼はどう受け取ったのだろう。



 格納庫の奥で、かすかな動作音が聞こえた。

 ノアは足を止める。

 誰もいないはずの時間帯に、整備区画の照明が一つだけ点いている。


 そこに――彼がいた。


 リオ・エルグレイン。

 だが、今日はいつものようなスーツ姿ではなかった。

 上半身の装甲を外し、神経接続装置を調整している。


 そして、ヘルメットも……外していた。


 ノアは息を呑んだ。

 人工光の下に立つ彼の顔は、

 まるで作り物のように整っていた。


 肌は血の気が薄く、瞳は透き通る灰色。

 けれどその奥には、何も映っていなかった。

 まるで“反射”だけが存在する鏡のような目だった。


 彼女は声をかけようとした。

 だが、言葉が出なかった。

 胸の奥で何かが強く鳴った。


 ――この人は、本当に人間なの?


 その瞬間、彼が気づいた。

 静かに振り返る。


 灰色の瞳がノアを見た。

 驚きも怒りもない。

 ただ、“理解不能”という光だけがあった。


 「……どうして、ここにいる」


 声は低く、いつも通り冷静だった。

 だが、ほんの僅かに――揺れていた。


 「……整備点検を、しに」

 「立ち入りは許可されていない時間帯だ」

 「ごめんなさい。でも……」


 彼女は、思わず言ってしまった。


 「見たくなかったわけじゃないんです」


 リオの目がわずかに見開かれた。

 ノアは続ける。


 「あなたの顔、綺麗でした」


 空気が止まった。

 何も動かない。音さえも消える。


 彼の指先が、わずかに震えた。

 その微細な動きが、ノアには“人間”の証のように見えた。



【リオ】


 胸の奥で、何かが跳ねた。

 異常心拍。神経伝達の過負荷。

 いつものように処理しようとしたが――できなかった。


 彼女の言葉が頭の中で繰り返される。

 “綺麗”――という音。

 意味は知っている。だが、理解できない。


 「……なぜ、そんなことを言う」

 「思ったから」

 「俺は、造られた。美しさという概念に、価値はない」

 「でも、それでも……そう見えたんです」


 彼女はまっすぐに見ていた。

 恐怖も、ためらいもなかった。

 ただ、見ていた。


 視線が交わった瞬間、

 神経データが一気に跳ね上がった。

 脳波のノイズ。手の震え。

 身体が、命令とは違う動きをする。


 「……エラーだ」

 「また“エラー”ですか?」

 「そうだ」

 「だったら、それを直す方法はないと思います」


 「なぜ」


 「だってそれ、人間が“生きてる証拠”ですから」


 言葉が、空気に溶けた。

 理解できないのに、脳が反応している。

 その反応が止まらない。


 俺は思わず背を向けた。

 「見たことは、報告するな」

 「……了解」


 ノアの声は穏やかだった。

 責めもしない。

 ただ、少しだけ切なさを含んでいた。


 出口に向かう途中で、

 俺はもう一度、振り返ってしまった。


 彼女はまだそこに立っていた。

 光の中で、小さく微笑んでいた。


 何かが、胸の奥で音を立てた。

 痛みではない。

 けれど、確かに“動いた”。




 その日の記録に、俺はこう残した。


 《感情反応:未知。分類不能。》


 そして、追加の一文。


 《観測対象:ノア・ミレリア。接触時、心拍上昇。原因不明。》


 これが、俺が初めて書いた“個人記録”だった。

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