第3話「整備区画の夜」

【ノア】


 夜の整備区画は、静かだった。

 昼間の喧噪が嘘のように消え、機械の冷却音と照明の低い唸りだけが響く。

 ノアは整備ベンチに腰を下ろし、端末を見つめていた。


 《リオ・エルグレイン少尉:専属整備士 任命》


 軍上層部からの通達だった。

 その一文を見つめるたびに、胸の奥がざわめいた。


 なぜ、私なんだろう。

 上層部が認めた最高位のパイロット。

 “人間ではないほど完璧”な操縦をする男。


 昨日、彼の背中を見た。

 それだけなのに、ずっと頭から離れない。

 冷たくて、静かで、でも――少しだけ寂しそうだった。



 格納庫の隅に、彼がいた。

 いつものように、スーツのまま無言で機体を見上げている。

 顔のすべてを覆う黒いヘルム。

 光沢のない装甲のようなそれに、照明が反射して淡く光る。


 「……少尉。整備、始めてもいいですか?」

 「許可する」


 短い返答。

 声は低く、まるで冷えた金属のようだった。


 ノアは工具を手に取り、作業を始めた。

 しかし、沈黙が続く中で、どうしても聞きたくなってしまう。


 「昨日の戦闘、記録を見ました」

 「そうか」

 「敵は――人でしたか?」

 「操縦パターンがAIの規則から逸脱していた。おそらく有人」

 「怖くなかったんですか?」


 彼の動きが止まる。

 ゆっくりと、ノアのほうを振り返った。

 ヘルメットの反射に、自分の顔が映る。


 「“怖い”とは何を指す?」


 あまりに真っ直ぐな問いに、ノアは息を飲んだ。


 「……心が震えること。傷つきたくないって思うこと」

 「それは不必要な反応だ」

 「不必要……?」

 「判断を鈍らせる。だから、排除している」


 まるで、機械の説明のように淡々としている。

 だけど、彼の声の奥に、ほんの少し“ためらい”のようなものが混じっていた。



【リオ】


 彼女の言葉は、理解できなかった。

 “心が震える”――その定義を、俺は知らない。

 だが、胸の奥で何かがわずかに動いた。


 「排除している……?」

 彼女の声が反響する。

 “理解してもらえない”という感情――そう呼ばれるものが、

 他人の表情から読み取れる。


 「……君は、俺を怖いと思うか」

 「最初は。けど、今は少し違う」

 「違う?」

 「あなた、たぶん……本当は人よりも“人間”だと思う」


 思考が止まる。

 彼女の言葉が理解できない。

 “人間より人間”――それは矛盾している。


 「俺は、造られた存在だ」

 「造られたって、心まで機械じゃないでしょう?」


 また、理解できない。

 俺の“心”とは何だ?

 生体反応か、神経信号か。


 「君は……」

 言葉が途切れた。

 ノイズのような反応が脳内を走る。

 視界の端がわずかに白く揺れた。


 「少尉? どうしました?」

 「……問題ない」

 「脳波、少し乱れてます。休んだほうが――」


 彼女が手を伸ばした。

 その指先が、ヘルムの表面に触れる。

 ほんの一瞬。

 金属越しに、温度が伝わった。


 体温――37度。

 異常に高いわけでもない。

 だが、なぜか離れられなかった。


 「温かいですね、少尉」

 「……そう感じるのか」

 「感じますよ。あなたも」


 視界の奥で、光が瞬く。

 脳波がわずかに乱れ、心拍が上昇する。

 システムが警告を出した。


 《異常反応:リオ・エルグレイン/心拍+8%》


 俺は静かに息を吐く。

 「……また、エラーか」

 「エラー?」

 「この反応だ。理解できない」


 ノアが少し笑った。

 「それ、“エラー”じゃなくて“感情”ですよ」


 その言葉が、なぜか頭の奥で繰り返された。

 感情。

 それが、俺に起きている現象の名前なのか。




 整備区画の灯が一つ、また一つと消えていく。

 ノアは最後まで残り、イージス・ゼロの装甲を拭いた。


 リオは静かに背を向け、出口へと歩いていく。

 その背中に、ノアは声をかけた。


 「少尉。あなた、本当に“人間じゃない”んですか?」


 彼は一瞬だけ立ち止まり、

 そして――淡く、振り返る。


 「……分からない。だが、君と話すと……ノイズが増える」


 そう言って、彼は去っていった。


 ノアは微笑んだ。

 「それ、ノイズじゃなくて――“心の音”ですよ」

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