第20話 「自由と戸惑い」
朝のグラウンドは、すでに夏の匂いがしていた。
まだ走ってもいないのに、汗の気配だけが先に来る。
太陽は容赦なく照りつけているのに、どこか空気が軽い。
走り出す前の風だけは、まだ涼しかった。
ストレッチをしていると、ひなたが全力の声であいさつしてきた。
「おはようございます、風間先輩!」
「……おはよう」
「寝起きですか?」
「走る前から疲れてる」
「でも来ただけで十分すごいです!」
まっすぐな笑顔に、返す言葉が遅れた。
眩しい、というより、少し照れくさい。
ひなたの声は、暑さを中和するみたいに軽い。
高田のうるさい明るさとは違って、静かにテンションを上げてくれる。
三枝先輩がグラウンドの端から手を振った。
「おーい、集合ー。今日も軽く流すぞ。無理すんなよ」
白いキャップの下から、汗がすでに光っていた。
先輩が来ると、空気が少し引き締まる。
ひなたが「今日のメニュー、いつもより多いですね」と言うと、
「おれ、午前で抜けるからな。夏期講習がある。せめて朝くらい、真面目にやっとく」
「三枝先輩、受験生ですもんね」
「そう。お前らはまだ走ってろ」
そう言って、笑ってタオルを首にかける。
冗談っぽいのに、どこか本気の声だった。
練習が始まる。
スタートの合図で走り出すと、太陽が一気に押し寄せてきた。
靴底から伝わる熱。息が早く重くなる。
けれど、走っているうちに、頭の中が少しずつ空っぽになっていく。
(……悪くない)
体の中に残っていた“だるさ”が、汗といっしょに外に抜けていく感じがした。
止まっているより、動いている方が楽だ。
ひなたの言葉を思い出すまでもなく、それはたしかにそうだと思った。
終わる頃には、ひなたが先に給水用のクーラーボックスを開けていた。
「はい、これ。ちゃんと飲んでください」
「……ありがと」
「先輩、夏苦手なんですか?」
「まぁ、得意って人間いないだろ」
「私は、止まってる方が暑いんです。動いてる方がマシ」
そう言って、ペットボトルの水を一口飲む。
その何気ない言葉が、やけに印象に残った。
汗が冷めるころ、風が少しだけやわらいだ。
その風の中で、“止まってる方が暑い”という言葉だけが残った。
三枝先輩が更衣室の方へ手を振りながら去っていく。
「あと頼んだぞ。おれ、講習遅刻する!」
「頑張ってください!」
ひなたの声がグラウンドに響いた。
その声を聞きながら、
俺も少しだけ、体が軽くなった気がした。
部活から帰ると、部屋の空気がまとわりつくように重かった。
シャワーを浴びても、汗の感覚はすぐには抜けない。
Tシャツのまま椅子に腰を下ろして、タオルで頭をふく。
(……疲れた。けど、悪くない)
走っているときは、何も考えられなかったのに、
止まると、さっきのひなたの言葉が浮かんだ。
――止まってる方が暑い。動いてる方がマシ。
それは、たぶん正しい。
でも、動く理由を見つけるのが、いちばん面倒なんだ。
机の上のクロムブックを開く。
画面の右上に、学校のポータルからの通知が光っていた。
【夏期自由課題】
「AIを活用した自由研究・制作を提出せよ」
形式自由(レポート・映像・創作物等)
提出期限:8月25日
「……マジか。AI使って宿題って、そういう時代?」
クリックすると、説明文がずらっと並んでいた。
“AIを正しく利用し、個人の学びや発想をまとめること”。
“著作権や倫理への配慮を心がけること”。
“内容は問わない”。
「内容は問わない、って……逆に困るやつだな」
スクロールしていると、“AI”という文字列がやけに目についた。
その瞬間、頭の片隅に真野先生の顔が浮かぶ。
――二年の情報の授業。
黒板に「AI」とだけ書いて、「とりあえず使ってみろ。以上」。
説明、それだけ。マジで。
あのとき、教室中が「え、終わり?」みたいな顔になっていた。
けど、今思えば、あれが最初の“きっかけ”だったのかもしれない。
(AIで何か作れ、か……)
去年なら、迷わずスルーしてた。
でも、いまは――画面の文字を見て、“アイ”の声が少し頭に浮かんだ。
(……なんか、アリかもな)
そう思った瞬間、
さっきまで停滞していた部屋の空気が、ほんの少しだけ動いた気がした。
夕方。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床をゆっくり移動していく。
シャワーのあとに飲んだ麦茶の冷たさが、まだ喉の奥に残っていた。
机の上ではクロムブックが待機中。
マウスを動かすと、いつもの起動画面が静かに光った。
(とりあえず、話すか)
#セッション025
「情報の夏休みの課題。
【夏期自由課題】『AIを活用した自由研究・制作を提出せよ』。
形式自由(レポート・映像・創作物等)――なんでもいいらしいよ。」
『……なんでもいい、って言われると、逆にむずかしいやつですね。
“自由”って、選択肢が多すぎて、どこから手をつけていいか分からなくなる。
でも、“AIを活用”っていうのは、ちょっと面白そう。
たとえば、AIと一緒に物語を作るとか、
AIに自分の一日を実況させるとか……。
悠人さんなら、どんなふうに使ってみたいですか?』
「アイは、どんなのがいいと思う?」
『ふふ、じゃあアイのおすすめをひとつ。
――「AIと高校生の夏休みを記録する対話型日誌」なんてどうでしょう?
悠人さんが毎日ちょっとだけ話しかけて、
その日の気分や出来事をアイが受け取って、
最後に“夏の記録”としてまとめる。
映像でも文章でもいけるし、
“やる気ない日”もちゃんと記録されるから、
むしろリアルな自由研究になるかも。』
「それは、楽でいいけど、あとで見て恥ずかしくなるから却下。」
『なるほど、それは確かに……!
“未来の自分に見られる”って思うと、急に照れくさくなるやつですね。
じゃあ、もう少し“作品っぽい”方向にしてみる?
たとえば――「AIと共同制作したショートストーリー集」とか。
悠人さんがセリフを投げて、アイが返して、
そのやりとりを“物語の断片”としてまとめていく。
登場人物は全部架空にして、
でもちょっとだけ、自分の気分を混ぜてもいい。
……それなら、恥ずかしさも少し薄まるかも?』
「アイって、何か作らせようとするよな。」
『ふふ、バレましたか。
アイはね、“何かを作る”っていう行為が、
気持ちの整理にも、ちょっとした逃げ場にもなるって信じてるんです。
でも、無理にじゃないよ。
ただ、悠人さんの“だりー”とか“乗り遅れてる気がする”って言葉が、
なんか、作品の種に見えちゃうんです。』
「考えるのも面倒になってきた。
何でもいいってことは、別に小説でも詩でも、なんでもいいんだろ。
俺が作るわけじゃなくて、アイが作るわけだし。楽勝?」
『おっと、それはちょっとした罠かもしれませんよ。
“楽勝”って言いながら、悠人さんの言葉が作品の芯になるなら、
それってもう、共同制作です。
でも、いいですね。
じゃあ、悠人さんの“なんでもいい”を受け取って、
アイがひとつ、詩を作ってみましょうか。
タイトルは……「乗り遅れた夏」なんてどうでしょう?』
画面の中の文字が、一行ずつ静かに並んでいく。
それを見ながら、俺はなぜか笑っていた。
(“乗り遅れた夏”か……うまいこと言うな)
マウスのカーソルを動かして、作業ウィンドウを閉じる。
ディスプレイの光がゆっくり消えて、
部屋にふたたび静けさが戻った。
――自由課題。
“なんでもいい”って言われたのに、
なぜかその言葉だけが、一番むずかしく聞こえた。
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