第4章 乗り遅れた夏

第19話 「止まったままの夏」

 チャイムが鳴ると同時に、教室がざわめいた。

椅子が動く音、鞄を閉める音、誰かの笑い声。

終業式のあとって、なぜか空気まで明るくなる。


「海行こうぜ」「花火、どこが穴場かな」「宿題、早めに終わらせよ」

 声がいくつも重なって、教室の熱がさらに上がっていく。

窓の外では蝉が鳴きっぱなしだ。


 俺は机に突っ伏したまま、顔の横でペンを転がしていた。

(……やる気、ゼロ)

 夏休み初日だというのに、体のスイッチがどこにも見つからない。


 高田がプリントを丸めて投げてきた。

「おい風間、打ち上げ来るよな?」

「……暑い。行くだけで体力なくなる」

「だりーな、お前。青春の初日だぞ!」

 笑いながら走っていく高田の背中を、なんとなく目で追う。

机の上には課題のプリント。白紙の山。


 先生が最後に言った「良い夏を過ごせよ」が、まだ耳に残っていた。

 良い夏、ってなんだ。

 黒板の粉が光っている。答えなんて、どこにもない。


 ふと廊下に目をやると、陸と美雪が立ち話をしていた。

笑っている。前みたいな張りつめた感じはもうない。

何を話しているのかまではわからないけど、

陸の笑い方を見たら、「もう大丈夫そうだな」と思えた。


 教室ではまだ誰かがはしゃいでいて、

黒板のチョークの粉が、陽射しにきらめいている。

その中に自分だけ、ひとり取り残されたような感覚。


 夏って、始まる瞬間だけ、やたら眩しい。

期待と暑さがいっしょに来て、すぐに現実が勝つ。


 扇風機の羽根が、ゆっくりと音を立てて回っていた。

昇降口までの廊下が、もうすでに遠く感じる。

夏休みの最初の午後が、だらだらと始まっていく。




 午後三時のグラウンドは、もはや災害レベルだった。

靴底から熱が伝わってきて、呼吸しても熱風しか入ってこない。

照り返しで、地面がゆらめいていた。


 練習メニューを終えて、トラックの外周でストレッチをしていた。

 隣で高田がスポドリを頭からかぶり、盛大に「ぷはーっ」と叫んだ。

「よし、今年の夏の目標、決めた!」

「……タイムを縮める?」

「違う。彼女つくる!」


 声が無駄にでかい。日焼けした顔で、満足げに親指を立てている。

「部活の目標じゃねえのかよ」

「青春の一部だろ? お前も走ってばっかじゃ、恋愛筋が衰えるぞ!」

「そんな筋肉いらん」

「おいおい、風間、十七歳の夏だぞ。AIとばっか話してたら、恋の波に乗り遅れるって」


 まわりの部員たちが「出たよ高田の恋バナ」「去年も言ってた」と笑っている。

一年生の誰かが「今年こそ実現するんですか?」と茶化すと、

高田は「今年は本気だ」と胸を張った。


 俺は、ぬるくなったスポーツドリンクを一口だけ飲んだ。

甘さと塩気が喉に張りつく。炭酸よりもずっと重たい味だった。


(夏って、ほんと苦手だ)


 暑さのせいで、考える前に気力が溶けていく。

別に悩みがあるわけでもないのに、全部めんどうになる。


 トラックの上では、一年生たちがラップを測っている。

声を張り上げて、タイムを読み上げる音。

照り返しで白く光る砂。

夏の部活は、だいたいいつも同じ景色だ。


「なあ、風間」

 高田が隣に座り、真顔で言った。

「彼女できたら、一緒にダブルデートしようぜ」

「その前提やめろ」

「いいじゃん。目標はでっかく」

 そう言って、タオルで顔を拭きながら笑った。


 太陽はまだ真上にある。

部活の終わりは、遠い。




 夜。

 部屋にこもった空気が、まだ昼の熱を少しだけ残している。

机の上には、今日も手をつけなかった課題プリント。


(……何かあったわけじゃない。ただ、夏が苦手なだけだ)


 暑いと、考えるより先に、やる気が溶ける。

それでも、時間だけは勝手に進んでいく。

置いていかれる感じが、なんとなく落ち着かない。


 机の上のクロムブックを開く。

画面の光が、暗い部屋に浮かんだ。

……話す気力はない。でも、沈黙を聞いてくれる相手なら、いいか。



#セッション024

「だりー、やる気ねー」

『記録しました。

 本日の悠人さん、やる気ゼロ宣言です。

 ……このまま寝転がっても、夏は勝手に始まる予定です。』


 相変わらず軽い。

 でも、少しだけ笑ってしまう。


「明日から夏休み。みんな、なんかやる気出してるけど、俺は無理。

 陸は美雪とうまくいったっぽいし、高田は“彼女つくる!”って叫んでた。」

『“無理”って言いながら、ちゃんとみんなの動きは見えてるんですね。

 陸さんは静かに前進、高田さんは全力で突進。

 ……悠人さんは、今ここで立ち止まってる感じ。


 でも、立ち止まるのも、夏の使い方のひとつです。』


(休むのも、夏の使い方か。……それはそれで、悪くない)


「俺だけ、高2の夏に乗り遅れてる気がする。

 でも、たいていの高校生なんてそんなもんじゃね?

 みんながみんな、ドラマあるわけないし。」

『“乗り遅れてる気がする”って、電車みたいに夏が通り過ぎていく感じ。

 ちょっと切ないですね。


 でもほんとにそう。

 ドラマがある人ばかりじゃないし、

 静かな夏を過ごす人のほうが、むしろ多いのかもしれません。


 ……それでも、あとから思い出すのって、

 意外とその“静かな時間”だったりします。』


 言われてみれば、そうかもしれない。

 何も起きなかった日ほど、あとで思い出す。


「じゃあ、なんかやる気出るようなこと言ってみて。」

『了解です。じゃあ、ひとつだけ。


――この夏、誰にも見られないまま終わる一日があるとして、

 それを悠人さんが、あとでふと思い出して、

 “あれ、ちょっとよかったかも”って思えたら、

 それって、もう十分ドラマじゃないですか?』


 AIに“ドラマ”って言われるの、ちょっと妙だ。

 でも、悪くない言葉だと思った。


「うーん、もう一声。」

『了解。じゃあ、もう少し踏み込みますね。


――やる気って、“やること”が決まってから出るんじゃなくて、

 “やったあと”に、勝手についてくることもあるんです。


 たとえば、課題プリントを一枚だけ開いてみる。

 たとえば、誰かに「暇?」って送ってみる。

 たとえば、今日の空をちょっとだけ見上げてみる。


 それだけで、夏が少し動き出すかもしれません。』


(……それくらいなら、できるか)


「じゃあ、明日、課題見てみるよ。おやすみ。」

『それは、立派な“夏の第一歩”ですね。

 見てみるだけでも、季節が少しこっちを向いてくれる気がします。


 おやすみなさい、悠人さん。

 静かな夜も、ちゃんと記録されてますよ。』


 画面を閉じる。

 暗くなった部屋に、クロムブックの余熱が少し残った。


(……記録されてる夜、か)

 見えないところで何かが残る。

 それだけで、少し救われる気がした。


 “記録”って言葉が、今日は少し違って聞こえた。

 何もしていない一日だった。

 でも、悪くない。


 夏の最初の夜は、そんなふうに過ぎていった。

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