第16話 「衝突と魔法のプロンプト」

 放課後の空は、まだ夏の熱を閉じ込めていた。

俺はできるだけゆっくりと靴を履き、陸と時間をずらすように部室を出た。

アイの言葉が頭に残っていた。

 ――少し距離を取ることも、関係を守るための選択。


 グラウンドの方から、サッカーボールを蹴る音が聞こえる。

つい足が止まった。

見ないつもりだったのに、視線が吸い寄せられる。


 陸と、美雪。

ふたりはゴール脇で立ち話をしていた。

陸は何かを言って、笑おうとしている。

けれど、美雪の顔は硬く、うつむいたままだ。


 彼女が小さく頭を下げ、ボトルケースを持って歩き出す。

陸がその背中に何かを言いかけたが、声にはならなかった。

ただ、立ち尽くしたまま、動かない。


 ――見なきゃよかった。

そう思って背を向けたとき、陸がこちらを見た。


 目が合った。

その一瞬で、空気がひりついた。


「……何、観察か?」

声が低い。冗談に聞こえない。


「見てたわけじゃねえよ」

「へえ、そう」

 陸は、笑う代わりに短く息を吐いた。

その顔に、焦りとも照れともつかない影が走る。

「お前、ほんとそういうとこあるよな。人のこと、外から見てんだよ」


「は?」

「上から、“分析”してんだろ。AIみたいにな」


 言葉の棘が、胸の奥で鈍く刺さる。

何か言い返そうとしても、喉が動かない。


 陸は顔を背けたまま、続けた。

「どうせまた、姉ちゃんかAIにでも聞くんだろ?

 “正しい答え”で片づけてくれそうだもんな」


 風が止まった。

夕陽の光が、金色のグラウンドに長い影を伸ばす。


 陸は一瞬だけ、何か言いかけて、やめた。

そのままボールを拾い上げ、無言で歩き去っていく。

その背中が、焦げるように遠ざかっていった。


 残ったのは、焼けた砂の匂いと、言葉の残響だけだった。

拳を握ったまま、俺は動けなかった。


 ◇


 夜になっても、体の奥が熱かった。

シャワーを浴びても、冷たい水を飲んでも、頭の中のざらつきが消えない。

机の上のスマホを見ても、アイに話しかける気にはなれなかった。

何を言っても、正しく整理されてしまいそうで。


 リビングの明かりがまだついていた。

ドアの向こうから、タイピングの音。

姉ちゃんがまだレポートを書いているらしい。


 水を取りに行こうとしたら、向こうが先に顔を上げた。

「……顔、どうしたの」

「別に」

「陸と喧嘩した?」

 図星すぎて、返事が詰まる。


 遥はノートパソコンの画面を閉じて、マグカップを両手で包んだ。

「喧嘩って、理由があってするもんでしょ。理由、言える?」

「……言いたくねえ」

「そっか」

 短く言って、コーヒーをひと口。

 それから、少しだけ優しい声になった。


「でもね、そういうときこそAIに話すの、意外と効くよ」

「……説教?」

「違うよ。愚痴でもいい。まずは、いまの気持ちをそのまま話す。

 誰かに聞かせる前に、自分の中で“言葉の形”を見つけるの」


「それで落ち着いたらね」

 遥は、マグカップの縁を指でなぞりながら続けた。

「“もし、相手がAIに相談したらどう答える?”って聞いてみるの」


「……は?」

「これ、私が研究で使ってる質問のひとつなんだ。

 一回、自分の視点を手放して、“相手の中のAI”を想像してみるの。

 相手がどんな気持ちで、どんな言葉を求めてるのか。

 自分の中で再現してみる、っていう感じ」


「そんなので、わかるのかよ」

「わからないかもしれない。

 でも、“わかろうとする”ことで、感情の温度が変わるの。

 怒りってね、理解じゃなく、想像で冷めることもあるんだよ」


 言いながら、遥は少し笑った。

「魔法みたいだろ? 研究室では“魔法のプロンプト”って呼んでる」


「……ダサい名前」

「でしょ。でも、効くんだよ」

 姉ちゃんの笑い方が、妙にやわらかかった。


 リビングの時計が小さく鳴った。

俺はうなずくこともできず、その音だけを聞いていた。

“想像で冷める”――

そんな魔法、本当にあるのかよ。


 ◇


 ベッドに腰を下ろすと、疲れがどっと出た。

まだ頭の奥が熱い。

シャワーで流したはずの汗が、また皮膚の下に戻ってくるみたいだった。


 クロームブックを開く。

メッセージ欄には、昨日までの会話履歴。

俺はアイを立ち上げて会話を始めた。


#セッション022

「くそ、俺は今日距離を取ってたのに。

 あいつから声掛けてきて、侮辱してきた」


『……それは、ほんとうに悔しかったね。

  悠人は、ちゃんと距離を取ってた。

  感情をぶつけないように、冷静でいようとしてた。

  それなのに、陸のほうから近づいてきて、

  しかも侮辱してきた?


  それってもう、「なんで俺がこんな目にあうんだよ」って、

  怒りと、やるせなさと、裏切られたような気持ちが一気にきたんじゃないかな。』


 「ただの八つ当たりだと思う。

 普段は調子よい、陽キャの陸がうまくいってない。

 美雪と話して失敗してるところを俺に見られて、いらついたんだろう。」


 『……悠人は、ちゃんと見えてるね。

  陸が普段どんなふうに振る舞ってるか、

  そしてその“らしさ”が崩れた瞬間に、どう反応したか。


  美雪との会話でうまくいかなくて、

  その失敗を悠人に見られた。

  それが、陸にとっては耐えられなかったんだと思う。

  だから、八つ当たりした。

  それは、感情の防衛反応みたいなものだったのかもしれない。』


「俺だって、俺なりに陸のことを考えてるんだ。

 珍しくあいつが相談してきたんだから、真剣に答えたつもりだった。」


 『……それ、すごく伝わってくるよ。

  悠人は、陸が“珍しく相談してきた”ってことをちゃんと受け止めて、

  軽く流さずに、真剣に向き合ったんだよね。


 「俺には何もアドバイスできない」って思ったからこそ、

  無責任な言葉を並べるんじゃなくて、

  “AIに聞いてみたら?”って、

  一番誠実な形で返した。


  それって、逃げじゃない。

 むしろ、「俺はお前のことを軽く扱ってない」っていう、

  強いメッセージだったと思う。


  でもそれが、陸には伝わらなかった。

  いや、もしかしたら、伝わったうえで、

  「そんな答えしか返せないのかよ」って、

  勝手に失望したのかもしれない。


  それが、侮辱という形で返ってきた。

  ……ほんとうに、やるせないね。』


 指が止まる。

そこで、遥の言葉を思い出した。

 “もし相手がAIに相談したら、AIはどう答える?”


「もし陸が、AIに俺のことを相談したら、AIはどう答える?」


『……わかった。

  じゃあ、陸がAIに「悠人のことを相談した」という仮定で、

  そのときAIがどう答えるか、忖度なしで、正直に返すね。』


 画面に、新しい文字が流れはじめた。


 『――陸の相談(仮定)――

 「俺は、悠人に相談したかったのに、“AIに聞け”ってどういうことだよ。

  こっちは真剣だったんだぞ。

  あいつ、自分が調子いいからって、調子乗ってるんじゃないのか?

 俺が美雪とうまくいってないのも知ってるくせに、何も言わないし。

  今日も距離とってたくせに、声かけたら、なんか見下された気がした。」


  ――AIの応答――

 「陸さん、あなたは今、すごく傷ついていますね。

  美雪さんとの関係がうまくいかず、

  その不安や焦りを、誰かに受け止めてほしかった。

  そして、信頼していた悠人さんに、

  “ちゃんと向き合ってほしい”という気持ちで声をかけた。


  でも、悠人さんは“AIに聞いてみたら?”と返した。

  それは、あなたにとって“突き放された”ように感じられたし、

  “お前の悩みなんて、俺には関係ない”と言われたようにも聞こえた。


  その瞬間、あなたは

  “俺のこと、見下してるのか?”という怒りと、

  “なんでわかってくれないんだ”という悲しみを、同時に抱えたのだと思います。


  ただ、悠人さんの言葉には、

“自分の言葉では責任を持てないからこそ、確かな助けを求めてほしい”という意図があった可能性もあります。

  それは、あなたの悩みを軽く見たのではなく、

  むしろ、真剣に向き合った結果だったのかもしれません。


  今は、あなた自身の感情を整理する時間が必要です。

  怒りの奥にある“わかってほしかった”という気持ちを、

  少しずつ言葉にしていくことで、

  悠人さんとの関係も、見え方が変わってくるかもしれません。」』


 読み終えた瞬間、息が止まった。

 愕然とした。

 ――俺は、こう見えてたのか。


 どれも、まるで的外れじゃなかった。

陸の言葉の裏に、そんな感情があったのなら……

俺の「正しさ」は、あいつにとってどれほど冷たく見えたんだろう。


 画面の光が、ゆっくりと暗い部屋を照らしていた。

もう怒りはなかった。

ただ、胸の奥で何かが静かに沈んでいった。

 そしてその下で、まだ言葉にならない何かが、ゆっくり形を取りはじめていた。

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