第8話 「抜かれそうな背中」
六月のある日の放課後。
グラウンドのトラックで、俺はスマホの画面をじっと見つめていた。
走った距離やタイム、ラップタイムが細かく記録されていくのが面白くて、何度もスクロールしながら自分のデータを確認している。
「悠人先輩、すごいですね!」
声をかけてきたのは、一年生の後輩、ひなた。
短く切った髪の先に、夕方の光がかすかに透けている。
小柄で細身、けれどフォームはしっかりしていて、最近ぐんぐんタイムを伸ばしている。
部内でも密かに期待されている、新人だ。
「『RunMate』ってアプリ、使い始めたんですか?」
息を弾ませながらも、興味津々といった目をしていた。
「そうだ。なんとなく、数字で見ると自分の調子がわかりやすい気がしてな。」
「へぇ……いいですね、それ。わたしも使ってみようかな。」
小さく笑いながら、首の後ろをかく。
その仕草が、どこか素直すぎて、見ていると力が抜ける。
「最近、練習のリズムが合ってきた気がして。
もう少し上、目指したいんです。」
その言葉の奥には、真剣さがあった。
軽口でも、ただの向上心でもない。
“本気で速くなりたい”という気配。
(なんでお前、“わたし”なんだよ……)
心の中でそうツッコミながらも、どこかで笑っていた。
素直でまっすぐなやつ。だからこそ、印象に残る。
「いいよ。何でも試してみるのが大事だ。」
そう言うと、ひなたはぱっと顔を明るくした。
夕暮れの光が、その笑顔を照らしていた。
数日後。
また3000メートルのタイム計測の日がやってきた。
スタートラインに並びながら、
俺はスマホの「RunMate」に記録された前回のデータを思い出していた。
だけど、タイムはなかなか伸びていない。
周りの選手たちがペースを上げていく中、後ろからひなたの気配を感じる。
(こいつ、また上げてきたな。)
ひなたは真剣な表情で自分の走りに集中していた。
まっすぐな足運び、安定した呼吸。
その姿が、少しだけ俺の焦りを刺激する。
ゴール後、肩で息をしながら並んでいると、ひなたが笑顔で言った。
「先輩、わたし、記録伸びました!RunMateのおかげです!」
汗に濡れた髪が額に張りついているのに、笑顔だけはやけに眩しい。
俺は苦笑して返した。
「俺は相変わらずだよ。」
「でも、きっと次は抜かしますから。」
そう言って、軽く拳を突き出してくる。
その無邪気さに、なんだか救われた気がした。
物理的じゃないけど、少しずつ距離が詰まっている気がした。
夕暮れの風がトラックを渡り、汗と息を冷ましていく。
俺はもう一度、アイに相談してみようかと思った。
クロムブックを開き、アプリで記録したランのデータを転送する。
「RunMate」で記録されたラップやペースが、グラフとして画面に展開された。
セッション画面を立ち上げると、アイの返答がすぐに返ってきた。#セッション010
『データ、正常に受信しました。確認しています。
……後半のラップタイムに、継続的な落ち込みが見られますね。
このパターンは、単なるペース配分の問題に加えて、後半の粘り——いわゆるスピード持久力に課題がある可能性があります。』
やっぱり、そうか。走っていても、終盤で脚が残っていない感覚はある。
『まず取り組めることは、前半の入り方を少し調整することです。
初めの数周をやや余裕を持って走ることで、後半の持ち直しが生まれる場合があります。
“余裕を残して走る”——そうした感覚を身につけることも、記録改善には効果的です。』
「それくらいは自分でもわかる。他に何か、できることはあるか?」
自然と、そう打ち込んでいた。
『もちろんです。次の段階としては、スピードを維持する力そのものを育てるトレーニングが有効です。』
アイが提示したのは、シンプルな練習メニューだった。
たとえば、400mインターバルやテンポ走。
坂道ダッシュや体幹トレーニングも、フォームの維持に役立つらしい。
週に1〜2回、少しずつ取り入れていけばいい。
やるべきことは、案外はっきりしている。
でも——
「それをやれば、タイムは上がるんだろうか?」
『“これをすれば必ず結果が出る”とは言えません。
ただし、記録は他人に“教わる”だけでは伸びません。
自分で考え、試し、記録し、修正する。
その積み重ねが、確実に走りを変えていきます。
私は、情報を整理し、選択肢を提示することはできます。
でも、何を選び、どれを信じるかは、悠人自身の感覚と判断に委ねられています。
まずは、自分の走りをもう一度、見つめ直してみてください。
そこに、次のヒントがあるはずです。』
言ってることは、正しい。
理屈も、練習内容も、何ひとつ間違ってない。
でも、どうしてだろう。
正しいことを言われれば言われるほど、心の奥がざらついていく。
“自分で考えろ”“答えは自分の中にある”
そんなの、言われなくてもわかってる。
わかってるけど……それが一番できてないから、今こうして悩んでるんじゃないのか。
AIの文字が、冷たい光で整然と並んでいる。
淡々として、感情なんてひとつもないはずなのに——
不思議と、“責められてる”ように感じた。
俺は、ただタイムを伸ばしたいだけなのに。
何かが足りない気がして、どうしたらいいか知りたかっただけなのに。
……なのに、余計に分からなくなった。
クロムブックの画面を閉じたあと、部屋の静けさがやけに重たく響いた。
ベッドの上に寝転がっても、脳の奥でアイの言葉がまだ消えない。
“自分で考えて”
そう打ち込まれた一文が、何度も、何度も、胸の中で反響していた。
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