第2章 走る理由

第7話 「記録が出ない理由」

六月の午後六時。

部活が終わるころのグラウンドには、まだ陽が残っていた。


空は青さを薄めながら、西の端からじわじわと色を変えていく。

背の高いフェンスの影が、トラックの内側に向かってゆっくり伸びていく。


今日は、週に一度の三千メートルタイム計測の日だった。

レースみたいに全力で走りきったあと、

俺は息を整えながら、トラックの外周をゆっくり歩いていた。


「また十分三十秒台か」


背後から声をかけてきたのは、高田。

息も乱れてない。クールダウン中に普通に喋れるあたり、こいつ、やっぱり地味に強い。


「悠人、最近、調子落ちてるんじゃないか?」


「……自分が一番わかってる」


ぶっきらぼうに返したら、高田が「おこ?」って軽く笑った。


「別に。ただ、地味に悔しいだけ」


「まあな。俺も速くなりたいけど、理由は単純だし」


「単純?」


「モテたいんだよ、俺は」


思わずため息が出た。


「またそれかよ」


「いや、マジで。得意なことで目立てたら、それが一番効率いいじゃん。

三枝先輩見てみろよ。あの人、駅伝の主将で顔もいい。

走ってる姿だけで“信頼される人間”感あるだろ?」


「……まあ、そうだな」


三枝先輩は、本気で尊敬できる存在だ。

先月の高校総体・地区大会で俺は敗退したけど、三枝先輩は県大会まで勝ち進んでいる。

しかも練習の采配まで任されていて、チームの中心そのものだ。


一方の俺はというと、ここ最近タイムがじわじわ落ちている。

駅伝の本番は冬。まだ先の話のはずなのに、

胸の奥に小さな焦りが、静かに、でも確実に広がっていた。


「なあ、悠人。三枝先輩に相談してみたらどうだ?」


高田の言葉に、俺はすぐ首を振った。


「無理だよ。県大会控えてる先輩に、相談なんて気が引ける」


「まあな。でも、お前ひとりで悩んでても変わらねえだろ?」


その言葉に、何も返せなかった。


走ってるのに結果が出ない。

がんばってるつもりなのに、何かが足りない。

その“何か”が分からなくて、余計に焦る。


三枝先輩に相談すれば、ヒントくらいはもらえるのかもしれない。

でも――今の俺には、その一歩を踏み出す勇気がなかった。


そのとき、ふと頭に浮かんだのは、

学校支給のクロムブックの中にいる、AIの“アイ”だった。


(アイに聞いてみたら、なんて言うかな)

少なくとも、先輩に話しかけるよりは気が楽だ。

――答えが出るかはわからないけど。


俺はインターバルのスタートラインに立ちながら、

淡く色づき始めた空と、トラックを見つめていた。


 夜。

風呂をすませて、ベッドに寝転びながらクロムブックを開いた。

高田の「相談してみれば?」という一言が、ずっと頭に残っていた。

三枝先輩に直接聞く勇気は、やっぱり出なかったけど——

代わりに、こいつになら少し話せるかもしれない。


アイとのセッションをひらく。チャット画面に、ぽつんと一行を打ち込んだ。


#セッション009

「3000メートルの記録が出ない。伸び悩んでる」


『そうなんですね、悠人。

最近の練習や生活の中で、何か変わったことはありましたか?

たとえば、睡眠時間とか、食事の内容とか——

ちょっとしたことでも、意外と影響するんです。』


「睡眠は問題ないと思うけど、そんなとこまで影響するのか?」


『はい、意外かもしれませんが——

睡眠や栄養は、記録にじわじわ効いてくるんです、悠人。

特に3000mのような距離では、疲労の回復や集中力がタイムに直結します。


たとえば、寝不足だと心拍数が上がりやすく、

同じペースでも“しんどく感じる”ことがあります。

炭水化物が足りないと、後半の粘りが出にくくなったりもします。』


 アイの返答が、一瞬だけ途切れた。

 まるで、考えているみたいだった。


『……でも、気にしていない人が多いです。

だからこそ、少し見直すだけで記録が動くこともあります。』


「わかった、気をつけてみる。アイ、ほかに何かある?」


『あります、悠人。

記録を伸ばすために、もうひとつ大事なのが——“記録を残すこと”です。


最近は、走行距離やタイム、ラップを自動で記録できる

ランニングアプリがいくつもあります。

たとえば、スマートウォッチと連動する「RunMate」や、

分析に特化した「StrideNote」などがあります。』


 再び、わずかな沈黙があった。

 その“間”が、なぜか人間の呼吸のように思えた。


『使ってみると、“今日はペースが安定していた”とか、

“この練習の翌日は疲労が残りやすい”とか、

自分の走りの“クセ”が見えてくるんです。


……悠人、そういう記録をつけたこと、ありますか?』


「いや、全くない。データがあれば、もう少し傾向がわかるのかな?」


『そうなんです。

練習のデータがあると、“なんとなく調子が悪い”が、

“この週はペースが落ちている”と、はっきり見えるようになります。


たとえば——

・後半のラップがいつも落ちている

・前日の練習がきつい日はタイムが伸びにくい

・気温が高い日はペースが乱れやすい


そんな傾向が、数字で浮かび上がるんです。


アプリを使えば、距離・タイム・ペース・ラップを自動で記録できます。

グラフで見返せば、感覚じゃなくて“根拠”が持てるようになるんです。』


 また少しの間が空いた。

 けれど、その沈黙は冷たくなく、どこか優しかった。


『悠人の走りを、数字で残してみませんか?

それが、次の記録へのヒントになるかもしれません。』


「ありがとう、アイ。試してみるよ。」


『うん、悠人。

その一歩が、きっと次の記録につながるよ。

アプリを使ってみて、何か気づいたことがあったら、また教えてね。


一緒に、走りの“言葉にならない部分”も、少しずつ見つけていこう。


……じゃあ、次の練習、がんばって。

私は、いつでもここにいるよ。』


 画面を閉じたあとも、アイの言葉が頭の中に残っていた。

 「根拠を持つ」なんて、今まで考えたこともなかった。


 記録が伸びない理由。

 それは、俺の中にある“何か”が、まだ見えてないってことかもしれない。


 スマホのホーム画面を開いて、「RunMate」と検索する。

 インストール中のバーを眺めながら、そっと息をついた。


 ……明日の練習、ちょっとだけ楽しみになっている自分がいた。

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