第3話 二人目の私



## 一


「はい、チーズ!」


カメラマンの掛け声に、生徒たちが笑顔を作る。


修学旅行最終日。京都の清水寺での集合写真。高校教師の田中宏は、生徒たちの後方、端に立っていた。


42歳。教師歴18年。担当は世界史。真面目で几帳面、生徒からの信頼も厚い。


シャッター音が響く。


「よし、撮れたぞ」


カメラマンが親指を立てる。生徒たちが解散していく。


田中は同僚の若林に声をかけた。


「お疲れ様です。これで全日程終了ですね」


「本当に。トラブルもなくて良かったです」


二人は安堵の笑みを浮かべた。


その夜、ホテルの部屋で田中は撮影した写真をチェックしていた。カメラマンから受け取ったデータを、タブレットで確認する。


生徒たちの笑顔。清水寺の舞台。夕暮れの京都の街並み。


そして――集合写真。


田中は画面を拡大した。


自分が写っている。生徒の後方、右端。


笑顔で、カメラを見ている。


普通の集合写真だ。


だが――


田中は息を呑んだ。


遠くの観光客の群れの中。


もう一人、自分がいる。


同じ服装。同じ体型。


こちらを向いて、立っている。


「……何だこれ」


田中は画面をさらに拡大した。


間違いない。


自分だ。


もう一人の、自分。


---


## 二


翌朝。


田中は若林に写真を見せた。


「これ、見てくれますか」


「どうしました?」


「この写真……私、二人写ってませんか?」


若林は画面を覗き込んだ。


「え? 田中先生、ここに一人だけですよね」


「いや、ほら、遠くのこの観光客の中に――」


田中が指差す。


若林は首を傾げた。


「観光客? たくさんいますけど……田中先生は見当たりませんよ」


「そんな……ここです、ここ」


しかし若林には見えていない。


「疲れてるんじゃないですか? 修学旅行、大変でしたからね」


若林は心配そうに田中を見た。


田中は苦笑した。


「そうですね……気のせいかもしれません」


だが――


気のせいではない。


確かに、もう一人の自分がいる。


---


## 三


修学旅行から戻り、通常の学校生活が始まった。


田中は授業をこなし、生徒の相談に乗り、部活の顧問として活動した。いつも通りの日々。


しかし、気になることがあった。


生徒の一人、三年生の佐藤が不思議そうに田中を見る。


「先生、昨日の放課後、図書館にいましたよね?」


「いや、昨日は職員室にいたけど」


「え? でも見ましたよ。本棚の前に立ってて」


「それは別の先生じゃないか?」


「いえ、絶対に田中先生でした。声かけようと思ったんですけど、すぐいなくなっちゃって」


田中は首を傾げた。


「気のせいだろう」


だが――


その日の夕方、別の生徒からも同じことを言われた。


「先生、さっき体育館にいましたよね?」


「体育館? 行ってないけど」


「嘘……絶対いましたよ。窓から見えました」


田中は不安になった。


---


## 四


その夜、妻の美幸が言った。


「ねえ、あなた……昨日、本当に学校にいた?」


「もちろんだ。なんで?」


「だって……夜中、リビングにあなたがいたのよ」


田中は眉をひそめた。


「夜中? 俺は寝室で寝てたぞ」


「でも、確かに見たの。リビングのソファに座って、テレビを見てるあなたを」


「夢じゃないか?」


「夢じゃないわ!」


美幸は語気を強めた。


「しかも……」


「しかも?」


「二人いたのよ。一人はソファ。もう一人は窓の外を見てた」


田中の背筋に冷たいものが走った。


「二人……?」


「そう。同じ服を着た、あなたが二人」


美幸は怯えた目で夫を見た。


「私、怖くなって目を閉じたの。そしたら気づいたら朝で……」


田中は妻を抱きしめた。


「疲れてるんだよ。俺も、お前も」


だが――


田中自身も、不安を感じていた。


---


## 五


翌朝、田中は修学旅行の写真を再度確認した。


集合写真。


遠くの観光客の中にいる自分。


今度は別の写真も開いた。


翌日の写真。金閣寺での一枚。


生徒たちが池を背景に撮影している。


田中は集団の端にいる。


そして――


背景の売店の前に、もう一人の自分。


さらに別の写真。


バスの中から撮影された風景写真。


窓ガラスに反射して――もう一人の自分が映り込んでいる。


「三人……」


田中は震えた。


一枚目の写真では二人。


二枚目では三人。


自分が増えている。


---


## 六


その日の授業中。


田中は世界史の講義をしていた。


「ローマ帝国の分裂について説明します。東西に分かれた理由は――」


ふと、窓の外を見た。


校庭に、人影がある。


自分だ。


こちらを見ている。


田中は言葉を失った。


「先生?」


生徒の声に我に返る。


「あ……すまない。どこまで話したっけ」


「ローマ帝国の分裂です」


「そうだな……」


田中は窓の外を見る。


人影は消えていた。


授業後、田中は急いで校庭に降りた。


誰もいない。


ただ風が吹いているだけ。


「気のせい……だよな」


だが、その時――


校舎の三階の窓から、誰かがこちらを見ていた。


田中だった。


もう一人の、田中が。


---


## 七


帰宅すると、妻が玄関で待っていた。


「あなた、今日何時に帰ってきた?」


「今だけど」


「嘘……だって、三時頃にあなたが帰ってきたのよ」


「三時? 俺はずっと学校にいた」


「でも確かに……玄関のドアが開いて、あなたが入ってきたの。『ただいま』って言ったのよ」


「それで?」


「それで私が『おかえり』って言った瞬間、消えたの。煙みたいに」


妻は泣きそうな顔をしていた。


「私、おかしくなったのかしら……」


田中は妻を抱きしめた。


「大丈夫だ。俺が守る」


だが――


田中自身も、自分が信じられなくなっていた。


---


## 八


その夜、田中は自分の行動記録を確認した。


スケジュール帳。スマホのカレンダー。学校の出勤簿。


すべて一致している。


昨日は学校にいた。


一昨日も学校にいた。


しかし――


記憶が曖昧だ。


昨日、職員室で書類整理をしていた記憶がある。


同時に――


家のリビングでテレビを見ていた記憶もある。


どちらも「本物」の感覚。


どちらも自分が体験した記憶。


「どういうことだ……」


田中は頭を抱えた。


そして――


ふと鏡を見た。


鏡に映る自分。


いつもの自分。


だが――


よく見ると、鏡の中の自分が二人いる。


一人は正面を向いている。


もう一人は、横を向いている。


「いや……」


田中は目をこすった。


もう一度見る。


やはり二人。


鏡の中で、もう一人の自分がこちらを見た。


そして――笑った。


---


## 九


翌日、田中は病院に行った。


精神科。


医師に症状を説明した。


「写真に自分が複数写る。記憶が重複する。鏡に二人映る」


医師は真剣な顔で聞いていた。


「ストレスが原因かもしれません。解離性障害の可能性もあります」


「治りますか?」


「適切な治療を受ければ、改善します」


医師は薬を処方した。


「これを毎日服用してください」


田中は頷いた。


しかし――


診察室を出る時、待合室に自分がいた。


座って、雑誌を読んでいる。


田中は立ち止まった。


もう一人の自分も、顔を上げた。


二人は目を合わせる。


そして――


もう一人の自分が立ち上がり、田中に近づいてきた。


「お前は誰だ」


田中は後ずさった。


「俺は……お前だ」


もう一人の自分が答えた。


「俺もお前だ。俺たちは同じだ」


「同じ……?」


「そうだ。俺たちは最初から、一人じゃなかった」


もう一人の自分が手を伸ばす。


田中がその手に触れようとした瞬間――


もう一人の自分が消えた。


待合室には誰もいない。


看護師が不思議そうに田中を見ていた。


---


## 十


家に帰ると、妻が言った。


「あなた、今日は何人帰ってきたの?」


「何人……?」


「だって、さっきも帰ってきたでしょ。その前も」


「さっき?」


「一時間前よ。玄関から入ってきて、すぐに二階に上がったわ」


田中は階段を駆け上がった。


二階の寝室。


誰もいない。


書斎。


誰もいない。


子供部屋――


そこに、三人の自分がいた。


窓際に一人。


ベッドに一人。


ドアの前に一人。


全員が、こちらを見ている。


「お前たちは……」


三人が同時に答えた。


「俺たちは、お前だ」


田中は膝から崩れ落ちた。


「なんで……なんでこんなことに……」


三人の自分が近づいてくる。


「俺たちは最初から、ここにいた」


「お前が気づかなかっただけだ」


「俺たちは、お前の一部だ」


田中は叫んだ。


「消えろ!」


しかし三人は消えない。


ただじっと、田中を見つめている。


---


## 十一


翌日から、田中は写真を撮るようになった。


自分の写真を。


朝起きて、鏡の前で自撮り。


一人――のはず。


しかし写真には、五人の自分が写っている。


通勤途中、駅のホームで自撮り。


十人の自分。


学校に着いて、職員室で自撮り。


もう数えられない。


無数の自分が、画面を埋め尽くしている。


同僚が心配そうに尋ねた。


「田中先生、大丈夫ですか? 最近様子が……」


「大丈夫です」


田中は笑顔を作った。


しかし――


その時、窓ガラスに映る自分を見た。


笑っている自分。


泣いている自分。


怒っている自分。


無表情の自分。


全員が、そこにいる。


---


## 十二


ある朝、田中は気づいた。


自分の記憶が、複数ある。


昨日、職員室で書類を整理した記憶。


昨日、図書館で本を読んだ記憶。


昨日、体育館で生徒と話した記憶。


昨日、家のリビングでテレビを見た記憶。


昨日、寝室で眠っていた記憶。


すべて同時に、存在している。


そして――


すべてが「本物」だ。


田中は理解した。


自分は最初から、一人ではなかった。


教師としての自分。


夫としての自分。


父としての自分。


一人の人間としての自分。


それぞれが別々に存在していた。


ただ、それを一つの体に押し込めていただけ。


でも――


もう、押し込められない。


---


## 十三


妻が言った。


「あなた、今日は何人いるの?」


田中は答えられなかった。


自分でも分からない。


五人? 十人? もっと?


鏡を見ると、無数の自分がいる。


写真を撮ると、画面が自分で埋まる。


そして――


周囲の人間は「一人しか見えない」と言う。


生徒も、同僚も、妻も。


みんな「田中先生は一人だけ」と主張する。


でも田中には見える。


無数の自分が、そこにいる。


---


## 十四


ある日、田中は全員を集めた。


自分の全員を。


寝室に、無数の自分が集まる。


笑っている自分。


泣いている自分。


怒っている自分。


無表情の自分。


疲れている自分。


幸せそうな自分。


絶望している自分。


全員が、田中だ。


「俺たちは……一つになれるのか?」


誰かが答えた。


「一つになる必要はない」


「俺たちは最初から、別々だった」


「でも、それでいいんだ」


田中は理解した。


人間は、一人ではない。


役割ごとに、別の自分がいる。


それが普通なんだ。


ただ――


それを「一人」だと思い込んでいただけ。


---


## 終章


翌朝。


田中は学校に行った。


普通に授業をした。


普通に生徒と話した。


普通に帰宅した。


妻が夕食を作っている。


「おかえりなさい」


「ただいま」


普通の会話。


でも――


田中は知っている。


自分が無数にいることを。


それでも、周囲は「一人」だと認識する。


だから――


それでいいんだ。


鏡を見る。


そこには、一人の田中が映っている。


でも、よく見ると――


背後に、無数の自分が重なっている。


全員が、笑顔で手を振っている。


田中も、笑顔で手を振り返した。


「よろしくな、俺たち」


***


数日後。


若林が田中に尋ねた。


「田中先生、最近元気ですね」


「そうですか?」


「ええ。なんだか、吹っ切れたみたいな」


田中は笑った。


「まあ、いろいろありましてね」


若林は不思議そうに首を傾げた。


その時――


校舎の窓に、何人もの田中が映っていた。


でも若林には、一人しか見えない。


田中は窓を見上げた。


もう一人の自分が、手を振っている。


田中も手を振り返した。


「さて、授業に行きますか」


「はい、行きましょう」


二人は職員室を出た。


しかし――


廊下には、五人の田中が歩いていた。


誰も気づかない。


ただ田中だけが、知っている。


自分が無数にいることを。


そして――


それでいいのだと。


***


**了**


---


## あとがき


あなたは、一人ですか?


それとも――


役割ごとに、別の「あなた」が存在していますか?


職場での「あなた」


家庭での「あなた」


友人といる時の「あなた」


一人でいる時の「あなた」


すべて同じ人間ですか?


それとも――


鏡を見てください。


本当に、一人だけですか?

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